小学生1年生の時に兄と一緒に近所の友人と一緒に畑の横の道でサッカー人生をスタートしました。そこから暫くして、家から300mぐらいのところのサッカー少年団に入団し、中学は地元のサッカー部、高校も最寄りの津工業高校サッカー部でプレーしていました。

 

高校で県大会優勝や全国大会を経験し、高校3年の夏には当時JFLのチームに所属したいと思っていましたが、あっけなく無理になり、中京大学サッカー部に進みました。

 

2年を過ぎる頃、『本気でサッカーができるはこれが最後かも』と不安になりました。高校の恩師からブラジルでコーチングをしている方を紹介して頂き、大学を休学し、ゴルフ場や漫画喫茶や引越しやさんと色んなアルバイトで資金を貯め、約3年間ブラジルでサッカーを経験しました。

 

 

その後、Jリーグのアルビレックス新潟から逆輸入選手という形でサッカーをすることになりました。2シーズンJリーガーとして活動することになりましたが、その後の移籍に失敗し、地域リーグの東北2部のクラブで移籍期間を待ちながら、過去にプレーを見ていただいたエージェントの方からパラグアイ1部のクラブを紹介していただきました。

 

すぐにパラグアイに行き、すぐにトレーニングが始まりました。パラグアイでは1部とは言えど、田舎クラブだったので毎日の通勤はバス移動。

しかも、パラグアイにはバス停というしっかりしたバス停がなく、自分の乗りたいバスの番号が来たら自らタクシーのように止めるような感じでした。当時はスペイン語はあまり分からず生活面でも苦労しました。

 


肝心なサッカーでは平日はレギュラー組でプレーしていたのですが、日曜日になるとメンバー外になる事が続きその理由を監督に聞くと、『試合に出たいのであれば僕のポケットにお金を入れなきゃ』と笑われました。その旨をエージェントに伝えると、エージェントからは連絡が来なくなりました。

 

そこからは練習にも出れなくなり、契約の残ったままトレーニングのできない選手になってしまいました。

 

そこからパラグアイ中を移動し、ペルー人が主催のトライアル試合に参加が決まりました。相手はナショナルというパラグアイの強豪クラブ。その試合で評価され、ペルー1部のウニオンパシフィコというクラブのキャンプに参加する事になりました。そこからはしばらくペルーへ行き、トレーニングを参加する日々が続いている時に違うクラブが興味を持っているからクスコまで行ってくれ。と言われその日の夕方にはクスコに飛びました。

 

翌日にペルーの強豪シエンシアーノというクラブとパラグアイの1部セロデフランコというクラブのプレシーズンマッチがありました。僕はどっちのクラブとして試合に出るかもわかっておらず、スタジアムでパラグアイ側に入れと言われそこで試合に出ました。その時のスタジアムの標高は3900mで富士山より高いところでの試合で、ダッシュ2本で足が重くなり、試合中に鼻血が出て試合後に頭が痛くなり、寝込むぐらい辛いアウェイゲームでした。

 

しかし、その甲斐もあり、パラグアイのクラブと契約を出来るという事でまたパラグアイに戻る事になりました。そこでもまた問題があり、エージェントとクラブの間で問題(プレシーズンマッチの収益の分配金)があり、最終的には君とは契約はしないと言われました。


そこから無職になり、僕は南米で何もできなくなったので、ブラジルに渡り色んなクラブでトレーニングをする事になりました。


ビザの関係でサッカー選手として再度プレーする事は難しく、チリ、ボリビア、アルゼンチンとトレーニングに参加しました。アルゼンチンにいる時に、違うエージェントから連絡が入り、タイとインドのクラブからオファーを出せるから一回日本に帰って欲しいと言われて、タイのクラブでは練習参加をしていましたが、条件的にはインドの方が良く、日本で労働ビザの手続きをしに、帰国しました。

 

 

インドでは、今までの南米の文化に慣れていたのが、全く異なる文化になりサッカーのレベル自体も全然違い、色んな難しさも同時に発見しました。正直当時はインドでサッカーするなんてサッカー選手として終わったと思われていたような気がします。

そこで1シーズンプレーし、そこからはイラクリーグのキャンプに参加する予定でしたが、戦争の関係もあり難しくなっていた時にラモス瑠偉監督のいるFC岐阜でトレーニングさせて頂く事にもなりました。そこで、トレーニングの結果契約していただく事にもあり半シーズン在籍させて頂きました。

 

 

その後はヨーロッパの田舎クラブにチャレンジしました。田舎クラブとはいってもその国では1部でヨーロッパリーグ予選出場も決まっているほどでした。そこでまずは試合に出て、監督からキプロス遠征に帯同するチャンスをもらいました。そのキプロスのラルナカ遠征では20日間でルーマニア、韓国、中国、フランス、ロシア、キプロス、ギリシャ各国のトップリーグのクラブがキャンプをしていて今までに見たことのないレベルの選手も多くいました。

 

その中でもレギュラーで試合に出て、遠征を終え、リトアニアに帰りました。いよいよ正式に契約が決まると思っていました。しかし、契約する時に、『このクラブでは、八百長があるからその利益で君に一括で払う。それが嫌なら今日中に荷物をまとめて帰ってくれ』と中国人オーナーから言われてしまったのです。

 

僕はすぐに荷物をまとめ、クラブ探しを再開しました。バングラディシュ、香港、タイ、本当に多くのチームに練習参加しました。そして元チームメイトからモルディブでサッカーしないか?と誘われ、フライトチケットが送られてきて、そのままプレーする事になりました。

 

その後、シーズン終了と同時にインド時代に対戦したオーストラリア人監督から連絡を頂き、オーストラリアのメルボルンのクラブでサッカーをするようになりました。そこでも1シーズンプレーし、次はまたリトアニアのクラブからエージェントを通して練習参加をし、契約する事になりました。リトアニアの半年間でのプレー結果から、現在中東のオマーンのクラブからオファーを頂き、プレーすることになりました。

 

とにかく愚直にまっすぐサッカーを続けてきましたが、多くの方の支えや、トライアルなどの機会があったからこそ諦めずにやってこれたと思っています。

 


 

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