高田歌舞伎を継いだ女役者刊行プロジェクト

高田歌舞伎を継いだ女役者刊行プロジェクト

支援総額

2,069,000

目標金額 1,300,000円

支援者
171人
募集終了日
2021年7月10日

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プロジェクト本文

プロジェクトに至る経緯

木下繁喜は、これまで東日本大震災にかかる2冊の本を出した。岩手県の大船渡市と住田町を主舞台とする。大船渡市と住田町、そして奇跡の一本松で知られる陸前高田市は「気仙地域」と呼ばれ、ともに歴史を歩んできた。

木下が今回出したい、という本は、陸前高田市が主舞台。前の2冊は実体験を踏まえた東日本大震災をめぐる話だが、今回は文字どおり歌舞伎の女役者を軸にする。全国を巡業するプロの役者だった佐々木トキワという明治生まれの人物が、戦後、故郷で高田歌舞伎を継ぐ話だという。

木下は、前の2冊の発行元はる書房の佐久間あきひとと、木下の友人で編集者の宮川典子に相談した。

大船渡市出身で地元紙『東海新報』の記者だった木下が、被災した大船渡市とその支援を担った住田町のことを記録に残そうというのはわかる。でも、なぜ歌舞伎? それも30年以上前に消えたという。大震災から10年が経ったいま、佐久間と宮川はその意味を知りたいと思った。

 

東日本大震災 被災と復興と  東日本大震災 住田町の後方支援

2015(平成27)年3月、はる書房より刊行 / 2017(平成29)年1月、はる書房より刊行

 

気仙地域

気仙地域

岩手県の最南部に位置し、東には三陸海岸、西には北上山地が広がる。平安時代から金の産出と塩や魚介等の海産物の生産地として栄えてきた。近代になると、漁業、農業、林業のほか海産物の養殖業、製糸業等々が興る。地域の約8割は山林原野が占める

 

浅尾左朝次こと、佐々木トキワ

浅尾左朝次こと、佐々木トキワ

ブロマイド(左)裏面のメモから25歳当時(1930〈昭和5〉年)のものと思われる。右の写真は撮影年月日が不明。トキワは1906(明治39)年、気仙郡高田町(現・陸前高田市高田町)の塗師佐々木家の四女として生まれた。

トキワは、12、3歳の頃に見た旅回りの一座の芝居に魅せられ、15歳で旅回りの一座に加わる。その後、名古屋の一座での下積みを経て、東京を本拠とする浅尾朝之正のもとへ弟子入りし、左朝次の名をもらう。全国で興行するなど役者の道を歩むが、20代なかばで愛知県名古屋市の実業家と結婚、子をもうけて 一時活動を中断する。1945(昭和20)年3月の空襲で夫を亡くし、一子とともに帰郷。高田歌舞伎の継承者となった

 

高田歌舞伎の役者たち、ありし日の舞台

 高田歌舞伎の役者たち、ありし日の舞台

左下は左朝次最後の舞台姿。演目は一座の十八番のひとつ、「加賀見山旧錦絵」。齢80、片足・右は義足であることを感じさせない演技だった。この3年後、トキワは老衰のため亡くなる。左は腰元・お初役の猪股みや

資料提供(右の段・中央):株式会社東海新報社

 

高田歌舞伎を記録したいという思い

木下が、「高田女歌舞伎」について知人から初めて聞いたのは、1994(平成6)年のことだという。1986(昭和61)年から1990(平成2)年まで木下は陸前高田市を担当していたが、その存在すら知らなかった。「せめて記録だけでも残さなければ」との思いから翌年には取材を始め、史料を探し出し、在命の関係者を訪ねた。

歌舞伎は男性が演じるものとばかり思っていた木下は、高田歌舞伎の座長がプロの女歌舞伎役者だったと知って二重に驚いた。浅尾左朝次とゆかりの女歌舞伎役者が多い愛知県(尾張・三河地方)へも足を運んだ。そして、3年後の1997(平成9)年に「幻の気仙歌舞伎を追う ある女歌舞伎役者の生涯」と題した新聞連載を企画・執筆したのである。

ただ、女歌舞伎ついては史料が少なく、わからない点も多い。左朝次が残した巡業記録や他の気仙歌舞伎も書ききれず、課題が残ったという。

いずれ取材し直して世に出そうと、取材ノートを含む資料は会社の資料庫に仕舞った。取材の際、現物が複数ある資料は分けてもらい、それ以外の資料は全てコピーを取っていた。資料はさらにコピーを取り、取材テープとともに陸前高田市立博物館にも提供したのだという。

 

市民文化祭のプログラム

市民文化祭のプログラム

市民文化祭のプログラムはほとんど残っていなかったが、後に猪股みやが保管していた資料の中にほぼ完全な形で見つかった

資料提供:株式会社東海新報社

 

津波を免れた資料

2011(平成23)年3月11日午後2時46分頃、東日本大震災発生。

大船渡市は死者・行方不明者419名、家屋倒壊数3,938棟の被害を受けた。しかし、それ以上の被害に見舞われたのが陸前高田市であった。死者・行方不明者1,759名、家屋倒壊数4,046棟。市街地の高田町や気仙町今泉地区は、見慣れた家並みや商店街が津波に呑まれ姿をなくした。〈被害数は2017(平成29)年2月28日現在「東日本大震災津波による岩手県の被害状況」より〉

海に近い陸前高田市立博物館は津波で水没。木下が提供した“高田女歌舞伎”の資料やテープも、関係者から寄託されていた衣装や道具なども他の所蔵品とともに流され、あるいはヘドロまみれになった。さらに取材で訪ねた陸前高田市内の関係者の家も全て、姿を消していたという。

一方、東海新報社の資料庫に置かれていた資料は、震災前に大船渡市内の木下の自宅へ移されていた。しかし、木下の自宅にも津波が押し寄せ、1階部分にはいくつも大きな穴が空き、海水は2階まで達していた。2階納戸に入れてあった取材資料を詰めた段ボール箱は無事か? ほとんどの段ボール箱は濡れていたが、水滴ひとつ被っていない段ボール箱があった。それが高田歌舞伎の資料を収めたものだったという。

高田歌舞伎を伝える唯一の資料が、木下のもとに残されたのである。

 

 

被災前の衣装  被災後修復された鬘

 被災前の衣装と被災後修復された鬘

衣装や道具類(鬘、簪)などの一部は東北地方太平洋沖地震被災文化財等救援事業(文化財レスキュー事業)によって修復がはかられた

資料提供(右写真):株式会社NHKアート

 

被災した木下の自宅 大船渡の街に押し寄せた津波

大船渡の街に押し寄せた津波、被災した木下の自宅

気仙大工の棟梁から「百年は大丈夫!」と大小判を捺してもらった家も、津波によって無惨な姿(左)に

資料提供:株式会社東海新報社

 

「気仙歌舞伎」とは何か

気仙歌舞伎という言葉は、木下が気仙地域に複数あった歌舞伎(地芝居)を総称して名付けたものだ。

気仙歌舞伎は、明治初期に「荒川(あらが)歌舞伎」が気仙村今泉(陸前高田市気仙町今泉)で旗揚げされたことから始まる。江戸時代から明治時代に入り、行政や経済の中心として栄えたのは現在の陸前高田市であった。

この後、「高田歌舞伎」「今泉歌舞伎(門前歌舞伎)」「竹駒歌舞伎」が次々と創設されたという。三座が競い合うことで気仙歌舞伎は盛んになった。また、現在の住田町には「中沢芝居」が創設された。大船渡市盛町には「盛町子供歌舞伎」が、同市三陸町でも「吉浜歌舞伎」が行なわれていったという。

気仙歌舞伎がたどった道

 

左朝次の時代の芝居

浅尾左朝次が遺していた手帳には1922(大正11)年から1931(昭和6)年までの巡業記録が記され、東北や関東はもちろん、北海道から九州、四国、と全国各地の芝居小屋を回っていたことが知れたという。

手帳には小さな新聞の切り抜きが貼り付けてあり、それが岩手毎日新聞の1926(大正15)年11月発行の紙面と木下は特定し探し当てることができた。それは佐々木トキワが浅尾朝之正の一座に入って研鑽、左朝次という名をもらって2か月後のこと、岩手毎日が朝之正一座を招いて盛岡の劇場で5日間の歌舞伎公演を開くという記事だった。

ライバル社岩手日報との激しい競争の中、読者サービスと販拡を狙って、公演前から連日紙面に取り上げていた。記事によると、朝之正一行は女優四十余名男優三十余名。初日の演目は『伽羅先代萩』『嫗山姥』『花川戸助六』。千数百人が来場し大入り満員、2日間の日延べ興行が決まり、『忠臣蔵』が披露された。

左朝次が活躍した時代、「旅芝居」と呼ばれる地方興行をこなす一座も少なからずあったという。座長による役者のプロデュース公演あり、常設の芝居小屋あり、祭りなどでの「小芝居」ありと、今日一般の人が歌舞伎座などでイメージする歌舞伎(大芝居=江戸時代幕府公認の劇場で演じられる)とは一線を画する庶民の豊かな芸能があったということだろう。

 

朝之正一座の盛岡公演案内の記事と優待券(1926〈大正15〉年11月21日付「岩手毎日新聞」)

公演は岩手毎日新聞の後援によるものであった。記事では朝之正を「東都女優界の最高幹部」と紹介し、さらには左朝次のことも「本縣出身のしつかりもの…郷里に於いて初御目見得…朝之正一座の女形二枚目としての花形…僅十九歳の少女でその技倆侮り難く」などと守り立てている。一行はこのあと高田町へ赴き7日間の興行を行なっている。トキワにとっては、まさに故郷に錦を飾る巡業となった

 

江戸時代の気仙地域の芝居

気仙歌舞伎が始まったのは明治時代というのが定説だったそうだ。けれど、大船渡市の郷土史家による古文書の解読により、1781(天明元)年には気仙地域のあちらこちらに地芝居があって賑わったことがわかったという。

また、別の古文書に興味深いことが書かれていた。1839(天保10)年正月に気仙地域の有力者たちが、春と秋に各一度の興行を許可するよう、仙台伊達藩に願い出て、今泉(陸前高田市気仙町)、高田(同市高田町)、田茂山(大船渡市盛町)、世田米(住田町世田米)の四か所で許可する旨の達しを得た。

呼ぶ一座の候補が二組あったが、江戸からの下り役者が多い組を選び、交渉に臨み契約金を支払った。にもかかわらず、他所に取られてしまったので、「浪人役者」と呼ばれる地元の役者を寄せ集めて興行して客は集まったが、結局損をした、と。

江戸時代、自由に興行はできなかったが、芝居は人びとを鼓舞し喜ばせる娯楽だったことわかる記録がいくつも古文書に遺されていたとのことである。

 

勢いをなくしていく地芝居

高田歌舞伎は、荒川歌舞伎の創設者小佐川甚吉の高弟のひとり、亀井涙太郎が明治初期に創設した。ただ、この人物の来歴は八方手を尽くした木下もわからないままである。

高田歌舞伎は、旧家や老舗の旦那衆が中心となって歌舞伎を演じたり支えたりしてきたというが、誰が役者だったかなど具体的なことはやはり不明だという。

江戸中期に始まったという地芝居は、明治、大正、昭和へと移りかわる中で、各地に生まれ、プロの役者による歌舞伎とともに庶民に愛される芸能となっていく。しかし、映画の登場も影響して徐々に勢いを失っていき、気仙歌舞伎も例外ではなかった。

明治以降、気仙地域は、1896(明治29)年に明治三陸地震、1933(昭和8)年には昭和三陸地震に見舞われる。また、23(大正12)年の関東大震災、27(昭和2)年の日本金融恐慌から31(昭和6)年まで続く経済危機、30(昭和5)年の満州事変を契機とする戦争は国を危機に陥れた。

第二次世界大戦中も、今泉歌舞伎と竹駒歌舞伎と高田歌舞伎は行なわれ、戦後へと続く。最後まで残ったのは高田歌舞伎であり、浅尾左朝次として活躍してきた佐々木トキワが戦後、一座に加わり座長に就いたことで、以後40年以上続くことになった。

 

最後まで残った「高田女歌舞伎」の終焉

高田歌舞伎は男性の一座だったが、高齢化と引退、成り手不足で座員が減少し、左朝次が女性を積極的に誘った結果、全員が女性の一座へと変わったという。最盛期には三十数名の座員がいた。地元では「高田女歌舞伎」と呼ぶようになるが、男性に門戸を閉ざしていたわけではなく、自ら女歌舞伎を名乗ることもなかったようだ。

1965(昭和40)年の陸前高田市民会館の完成は、高田歌舞伎に大きな転機になった。毎年そこで催される市民文化祭の舞台が高田歌舞伎の定期的な公演の場となり、最後の舞台もそこであった。市民文化祭の舞台を最後に、休演を決めたのは89(平成元)年11月のこと。前年の8月に一座は座長の左朝次をなくし、猪股みやが後継者となるも94(平成6)年に急逝し、高田歌舞伎の活動は完全に終止符が打たれることになったという。

 

自分が書くしかないという決意がいま形に

クラウドファンディングを始める前、佐久間や宮川から「気仙歌舞伎が途絶えて30年、震災からも10年が経つ。いまなぜ出版なのかという点は必ず問われる」と言われた木下は、「震災で多くの資料が失われてしまいました。それでも、いつの日か復活する日の来ることを願い、被災を免れた資料だけでも書き残しておきたい……これは私にとっての震災復興事業なのです」と答えている。

歌舞伎は気仙地域で、江戸時代中期(1681〜1780)から1989(平成元)年まで演じられてきた。しかし、陸前高田市史にも、大船渡市史にも、住田町史にもその記述はない。長い伝統を誇った気仙の地芝居は歴史の記録からも、人々の記憶からも失われてしまっている。

2017(平成29)年秋より、木下は本格的に執筆を始めた。

2020(令和2)年には東海新報で12回にわたる連載を持ち、1997(平成9)年の連載では書けなかった高田歌舞伎以外の気仙歌舞伎について書くことができた。連載は読者から貴重な情報をもたらし、ようやく原稿をまとめる目処もついた。

 

失って初めて、失ったものの大きさに気づく。3.11で失ったものはあまりに多い。先の本『被災と復興と』で、木下は「復興」とは何かを問いかけている。そうだったのか。この高田歌舞伎の本を出すことは、木下の信念を貫くということなのだ。

佐久間や宮川にとっては失ったことさえ知らない気仙の文化を伝えるお手伝いをしたい。忘れてしまえば存在しないも同じ、知らないで済ませば否定も同じではないだろうか。あの日から10年が経ち、関連報道が集中した時期も過ぎた今こそ、高田歌舞伎と継承者の話を世に出すべきだ。

こうして私たち(木下・佐久間・宮川)は、高田歌舞伎の本を刊行するプロジェクトを立ち上げることにした。

 

目標額の設定と出版までのスケジュール

本は、四六判240〜72ページ程度になると考えています。1,000部製作します(最終的な部数はプロジェクの成立をみたうえで決めたいと思います)。

目標額は130万円、主に編集・製作費に充てさせていただきます。

刊行時期は9月下旬とし、刊行後書店への流通・販売も予定しています。皆様の協力をぜひお願いいたします。万一、刊行が遅れる場合には事前にお知らせします。

また「返礼品(リターン)」には、私たち気仙応援し隊が特にお薦めしたい気仙地域の特産・名産品を用意しました。

 

 書名:(仮)高田歌舞伎を継いだ女役者〜大津波を免れた資料から〜

 著者:木下繁喜

 発行:株式会社はる書房

 刊行: 2021年9月下旬

 体裁:四六判並製カバー装/240〜72ページ程度

 予価:1,650円税込

 

※本の構成【予定】

第一章 歌舞伎役者として生きた左朝次

1906(明治39)年、商都として栄えていた高田町(現在陸前高田市)に生まれた少女、佐々木トキワは15歳で旅の一座に入団。5年で師匠から浅尾佐朝次の名をもらい歌舞伎役者として活躍、その後名古屋で結婚出産。第二次世界大戦末期の空襲で夫を亡くし帰郷し、歌舞伎の指導を始めるが事故で片足を失う。困難を乗り越え、「高田歌舞伎」を継ぎ、「高田女歌舞伎」と呼ばれる一座を率いて没するまでの人生を追う。

 

第二章 左朝次ゆかりの女歌舞伎役者たち

明治時代になって“女歌舞伎”は小芝居の世界で復活していた。“女歌舞伎”は明治・大正・昭和と一大ブームを巻き起こす。

左朝次の記した興行記録や盛岡での公演を伝える岩手毎日新聞の切り抜きなどの資料をもとに、忘れ去られた女役者たちを調べていく。

 

第三章 左朝次を生んだ気仙地域の地芝居

気仙地方の地芝居は明治期に始まったとされていたが、江戸時代天明年間に遡ることがわかった。

明治時代には「荒川歌舞伎」が始まり、さらに「高田」「今泉」「竹駒」が競い合う。住田町の「中沢芝居」、大船渡市盛町の「盛町子供歌舞伎」、三陸町(大船渡市と2001〈平成13〉年合併)の「吉浜歌舞伎」とさまざまあったことを明らかにする。

「高田歌舞伎」は戦後に左朝次が継ぎ、左朝次のもと、一座の役者が男性たちから女性たちに変わり、歌舞伎公演を行なうようになった。1988(昭和63)年左朝次の逝去をきっかけに、気仙歌舞伎で最後まで残った高田歌舞伎は消えた。

左朝次ゆかりの女役者、女義太夫(1)

左朝次ゆかりの女役者、女義太夫(2)

左朝次ゆかりの女役者、女義太夫(3)

左朝次ゆかりの女役者、女義太夫(4)

左朝次ゆかりの女役者、女義太夫(5)

左朝次の直筆台本

左朝次の直筆台本

高田歌舞伎が演じた演目は全部で22。その台本はトキワが記憶を頼りに、役ごとの所作、台詞、義太夫まですべてを書き起こしたという

 

著書・木下より一言

被災した地域の復興に向けて、国や県、市は懸命に事業を進めてきました。ところが、その復興事業は巨大な防潮堤や道路を造り、広大な面積に土を高く盛って、そこに建物を建て、そして新たな街を創るという土木事業が中心でした。事業は長期化し、本来優先されるべき被災した人たち個々の生活や生業の再建が脇に置かれてしまったように思えてなりせん。また震災で、地域にとって貴重な文化財や歴史的資料が多数被災したり、失われたりしてしまいました。地域のコミュニティーが崩壊し、継承が危機的状況に陥っている伝統芸能や伝統行事などもあると聞きます。

被災した人たちが一日も早く安心して暮らせる生活と生業を取り戻し、さらには受け継いできた地域の文化や文化財、資料、伝統行事、風俗・習慣といったものまでも再生してこそ、本当の意味で復興ではないのでしょうか。震災後の復興事業を見てきて、そう痛感しました。もちろん、再生できないものもあります。できないのであれば、せめて記録だけでもきちんとまとめ、後世に伝え残す。それもまた、震災後を生きる者の責任ではないかと思うのです。

 

箱根山展望台から見る夕暮れの海

箱根山展望台から見る夕暮れの海

目の前に広がるのが広田湾、カキの養殖いかだが並ぶ。湾奥(写真右手前)に高田松原が広がっていた

 

プロジェクトメンバー紹介:気仙地域応援し隊

木下氏木下 繁喜

『高田歌舞伎を継いだ女役者』(仮題)著者。元東海新報社記者、元役員。フリージャーナリスト。東日本大震災の経験と教訓をテーマに講演も行なう。岩手県大船渡市出身。青山学院大学法学部卒。

著書に『モスバーガーを創った男の物語「羅針盤の針は夢に向け」』(東海新報社、2011年)、『東日本大震災――被災と復興と』(はる書房、2015年)、多田欣一住田町長(当時)との共著に『東日本大震災 住田町の後方支援――小さな町の大きな挑戦・木造仮設住宅を造った町』(はる書房、2015年)がある。

モスバーガーの創業者櫻田慧は大船渡出身。 できたばかりの櫻田氏の本を届けに行った先で震災に遭う。会社へ戻る途中で自宅に立ち寄り、津波に追いかけられ、必死で逃げたという。

 

佐久間氏佐久間 あきひと

はる書房編集者。山梨県甲府市出身。同志社大学法学部卒。

大震災関係では、木下の本のほか、『震災があっても続ける――三陸・山田祭を追って』(矢野陽子、2017年)、『あの日から起こったこと――大地震・原発禍にさらされた医療者たちの記録』(大根健一・椎崎亮子・星野美穂構成、13年)の編集を担当。一昨年まで毎年、「相馬野馬追」に行き、取材した病院関係者と会ってきた。

また、2013〜16年まで『東北学』(東北文化研究センター責任編集、東北芸術工科大学発行、はる書房発売)の編集を手伝う。16年には、青原さとし監督のドキュメンタリー映画『映像叙事詩 土徳流離――奥州相馬復興へ悲願』(15年、205分)の冊子を宮川と作成、南相馬市在住の小説家・柳美里氏と監督の対談などを収めた。

 

宮川氏宮川 典子

元はる書房社員。現在こっぱ舎役員、日本車椅子シーティング協会監事。東京都杉並区出身。

青山学院大学法学部卒、日下喜一教授の政治学ゼミで木下と学んだ。木下の被災を契機に集まった青学同窓生を中心とする「朱夏の会」のメンバー。構成員は、福岡県、広島県、岐阜県、愛知県、神奈川県、埼玉県などの各地に住み、年一回集う。2019年9月には木下の案内で、陸前高田、大船渡を回った。福岡のメンバーは鉄道会社におり、以前に気仙沼線・大船渡線BRT(バス高速輸送システム)の視察で訪れている。

 

 

 


 

▼プロジェクト終了要項
・製作物    
四六判(ソフトカバー)

・出版完了予定日    
2021年9月

・著者    
木下 繁喜

・発行部数    
1000部

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プロフィール

今回のプロジェクトの目的の要は、『高田歌舞伎を継いだ女役者~大津波を免れた資料から~』(仮題)を世に出すこと、そしてその刊行を広く知ってもらうことです。今後は気仙地域の文化にかかる調査・記録等にも関わりたいと考えています。 大震災前と後で、町はたしかに変わりました。陸前高田を見れば、「高田松原」は大津波によって流されましたが、「奇跡の一本松」がメモリアルとなった。商店主たちが新しく商業施設をつくり、交流施設も増えた。陸前高田市立博物館も新築再開されます。 人口は減り、また事業としての震災復興事業は終わっていません。でも、人が住み、町がある限り、希望が明日に続く。 「気仙地域三部作」を踏まえ、私たちは、この今の、その先に、進んでいきたいと考えます。

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リターン

2,000


alt

お気持ちコース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

支援者
21人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

3,000


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本と名入れのコース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

支援者
36人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

5,000


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さらにポストカード進呈コース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■ポストカード進呈します
 ※「左朝次ブロマイド」複製など

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

支援者
51人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

10,000


子どもにも安心。自然の甘みが味わえる椿茶コース

子どもにも安心。自然の甘みが味わえる椿茶コース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■ポストカード進呈します
 ※「左朝次ブロマイド」複製など

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

■気仙椿の葉と岩手九戸村産の甘茶をブレンドした「椿茶 丸筒」は株式会社バンザイ・ファクトリーよりお届けします ※賞味期限は製造日より1年。常温で保存

支援者
23人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

10,000


アワビの貝殻、魚のウロコの手づくりペンダントコース

アワビの貝殻、魚のウロコの手づくりペンダントコース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■ポストカード進呈します
 ※「左朝次ブロマイド」複製など

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

■ナチュラボ コクーンの「アワビの貝殻ペンダント」、「サンマのうろこのペンダント」のいずれか1つをお届けします。三陸の海の魅力を伝えるアクセサリーが人気です ※写真は見本(「サンマのうろこのペンダント」)です

支援者
16人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

30,000


野菜が、ジュースがおいしい! きゅうりのピクルスと2種類のトマトジュースのコース

野菜が、ジュースがおいしい! きゅうりのピクルスと2種類のトマトジュースのコース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■ポストカード進呈します
 ※「左朝次ブロマイド」複製など

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

■陸前高田産・自根きゅうりのピクルスと、アイコ、イエローアイコの2種類のとまとジュースのセットは有限会社満福農園よりお届けします(食品衛生法第52条に基づく許可取得済み) ※賞味期限は製造日より1年。常温で保存

支援者
9人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

30,000


ナチュラボ コクーンの人気アクセサリー組み合わせコース

ナチュラボ コクーンの人気アクセサリー組み合わせコース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■ポストカード進呈します
 ※「左朝次ブロマイド」複製など

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

■貝殻や魚のうろこ、海藻などを使ったナチュラボ コクーンの「ブローチ」、「ヘアゴム」、「キーフォルダー」の3点をセットにし、お届けします ※写真は見本です

支援者
3人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

50,000


一度は味わいたい気仙の特産品コース

一度は味わいたい気仙の特産品コース

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■ポストカード進呈します 
 ※「左朝次ブロマイド」複製など

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

■「しおうに・やきうにセット」は志田海産乾物店よりお届けします(そうざい製造業許可取得済み) ※賞味期限は製造日より6カ月。要冷凍

■期間限定・特別純米酒「多賀多」720mL・1本は酔仙酒造株式会社よりお届けします(酒類製造業免許〈免許番号:大船渡調第3226号〉保有) ※こちらのリターンは20歳未満の方はご支援いただけません

支援者
10人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

100,000


一度は味わいたい気仙の特産品コース(「福おちょこ」付き)

一度は味わいたい気仙の特産品コース(「福おちょこ」付き)

■サンクスレター

■本1冊お届けします

■ポストカード進呈します
 ※「左朝次ブロマイド」複製など

■名入れ:本の巻末に支援者としてお名前を入れさせていただきます(お申し込みの際に名入れの「有無」を選んでいただきます)

■「しおうに・やきうにセット」は志田海産乾物店よりお届けします(そうざい製造業許可取得済み) ※賞味期限は製造日より6カ月。要冷凍

■「福おちょこ(左馬)」は株式会社バンザイ・ファクトリーよりお届けします

■大吟醸「感謝」1800mL・1本は酔仙酒造株式会社よりお届けします(酒類製造業免許〈免許番号:大船渡調第3226号〉保有) ※こちらのリターンは20歳未満の方はご支援いただけません

支援者
3人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2021年9月

プロフィール

今回のプロジェクトの目的の要は、『高田歌舞伎を継いだ女役者~大津波を免れた資料から~』(仮題)を世に出すこと、そしてその刊行を広く知ってもらうことです。今後は気仙地域の文化にかかる調査・記録等にも関わりたいと考えています。 大震災前と後で、町はたしかに変わりました。陸前高田を見れば、「高田松原」は大津波によって流されましたが、「奇跡の一本松」がメモリアルとなった。商店主たちが新しく商業施設をつくり、交流施設も増えた。陸前高田市立博物館も新築再開されます。 人口は減り、また事業としての震災復興事業は終わっていません。でも、人が住み、町がある限り、希望が明日に続く。 「気仙地域三部作」を踏まえ、私たちは、この今の、その先に、進んでいきたいと考えます。

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