山形城最後の藩山形水野藩首席家老、水野三郎右衛門元宣の銅像再建へ。

山形城最後の藩山形水野藩首席家老、水野三郎右衛門元宣の銅像再建へ。

支援総額

4,930,000

目標金額 4,000,000円

支援者
129人
募集終了日
2021年7月9日

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プロジェクト本文

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第一目標達成の御礼とネクストゴールについて

 

皆様からのご支援により目標である400万円を達成する事が出来ました。心より厚く御礼申し上げます。インターネットを通じて、また友達や町内近所、知り合いや関係者皆様のお陰で達成することができました。
 

これから第2のスタートです。皆様方の温かい応援と励ましのお言葉をこれからの活動のエネルギーとして、次の目標を銅像再建にかかる費用総額の1000万円と設定させていただきます。

 

さらに多く方たちと繋がりを持ちながら、銅像再建のために使わせていただきます。どうか変わらぬご支援を宜しくお願い申し上げます!

 

(2021年6月17日 追記)

                       大久保靖彦、水野幸子

 

戊辰戦争当時、山形を戦火から救った恩人

「首席家老 水野三郎右衛門元宣」の銅像再建にご支援を

 

山形県山形市の桜町に首席家老  水野三郎右衛門元宣(みずの  さぶろうえもん  もとのぶ)の塑像が建てられています。元宣は激動の幕末期に山形藩の人々を惨害から守った恩人であります。
 
明治35年9月、元宣の遺徳を後世に伝えるべく初代の銅像が豊烈神社境内に建てられました。昭和18年、第二次世界大戦完遂のために供出された後、昭和21年に郷土の彫刻家服部午山の作による現在の塑像が再建されました。

 

 

2021年。彫刻用のコンクリートの寿命は約50年と言われているなか、75年が経過し、いつ倒れるかわからない状態です。昭和55年に塑像の外側は塗装され、一見きれいな状態に見えますが、内部は劣化が進み、とても修復では難しい状態にあります。このまま劣化するのを見守るのではなく、銅像を再建して遺徳を偲ぼうと決意いたしました。
 
皆様の温かいご支援、何卒宜しくお願いいたします。

 

 

家老 水野三郎右衛門元宣(みずの さぶろうえもん もとのぶ)について

 

水野三郎右衛門元宣は天保14年浜松に生まれ、4歳の時に藩主水野忠邦の子忠精の国替えにより山形に移住しました。当時の家老宅は現在、最上義光歴史館(元山形刑務所)となっております。

 

最上義光歴史館一帯が元宣の屋敷でした。名残を留めていた老松も枯れ、昭和29年神事を行い伐採した跡地に香澄倶楽部で宅址碑を建立しました。平成2年最上義光歴史館建設に伴い、歩道側に移設しています。

 

旧水野邸池邊の臥龍の松


元宣は22歳で父、元永から家老職を継ぎました。文武両道にすぐれ藩士の信頼を一身に集めたといわれています。また新庄藩の家老の娘かねを妻にして長男、亀太郎が生まれます。
 
しかし、戊辰戦争が勃発。藩主が山形を離れて京都や江戸で軟禁されました。不安と責任が元宣の双肩にずしりと重くのしかかりましたが、決して臆することなく弱冠26歳の家老は真っ直ぐな強い責任感で指揮をとり、山形藩の保全を守り切りました。最初は新政府軍として庄内藩と戦いました。京都に拘束されていた藩主水野忠精は老中となり、山形の元宣らは新政府軍のみならず各藩からも「山形藩は本当に新政府軍か?寝返るのではないか?」と常に疑いの目で見られていました。その中で、相当苦悩しながらも、元宣は外交力を発揮して庄内藩に「山形市街に討ち入ることは見合されたし」と密書を届けています。
 
天童・山形と庄内軍の戦力は雲泥の差でありました。この最上川沿いの戦いで大久保伝平知敬や赤星守人武美など14名が戦死しました。激しい戦いで弾痕の生々しい板戸もそのまま保存されています。
 
仙台藩が新政府軍の参謀世良修蔵を襲撃した事件がきっかけとなり、新政府軍への攻撃が始まります。奥羽越列藩同盟に加盟するにあたり悩んだ元宣は京都の藩主に使者を送り判断を仰ぎました。仙台藩や米沢藩などの大藩の間にあって、苦渋の決断で加盟した同盟軍でした。31藩が集結し新政府軍と戦うことになりました。妻の実家がある新庄藩と交戦し辛い戦いにもなりました。また米澤藩からの「養子の脅迫」や「借金問題」などの無理難題がありました。元宣は動乱に対しても知略を巡らせ密書を送ったり領民を疎開させたり、武器を借りたり東奔西走しました。
 
はじめは優勢でもあった同盟軍でしたが、離脱した各藩が次々新政府軍に降参していき、山形藩も降参します。戦争後、新政府から反逆首謀者を問われた際に、元宣は「山形藩の責任はすべて自分一人にあり、他の者には寛容の御処置を」との嘆願書を提出し、他に犠牲者を出さないように努力したのです。その結果、元宣が戊辰戦争に際して官軍に反抗した首謀者として罪人となりました。

 

藩主への嘆願書

 

明治2年お沙汰が下されました。使者の東京軍務官副参事が、藩主水野忠弘の印が押された書状を読み上げました。切腹のお覚悟は十分あったものの、刎首の刑とはあまりにも重い刑を申し付けられたのです。若侍たちは一気にどよめき、東京から来た使者を切り払えといきがってこの理不尽なる処分に抗議を申し入れるとの話も出たのです。
 
「いったい誰がご家老様のお首を刎ねるのか?」皆「その儀ばかりはご容赦願いたい。常日頃から心服してまいったご家老様に何とて拙者が刃を向けられましょう」と断り誰も太刀取り役を引き受ける者はいなくて行き詰まりました。結局東京から来た使者の一人がその役を引き受けざるを得ませんでした。
 
当日は、罪人用の丸籠に乗せられた家老元宣に別れを惜しむ人々は、店を閉じて謹慎哀悼の意を表し土下座して手を合わせ拝涙して行列を見送ったということです。
 
同盟に加担した罪を背負って明治2年5月20日夕刻に27歳の若さで七日町の長源寺において、ひとり処刑されました。昼に宣告されて夕刻には刑に服されたのですから、家族にいとまをいう間もなく、切腹を許されない故に辞世の句も残せませんでした。

 

元宣終焉の碑(住職 葦原義正建立)

 

遠い昔の5万石小藩山形。戊辰戦争で若干27歳の首席家老は山形城下が戦火に巻き込まれないように奔走し惨害から守りました。戦争首謀者の罪を一身に背負って刑死に処されました。武士として切腹と思っていた元宣の無念さは計り知れないものだったでしょう。

 

山形城本丸跡

 

そして遺族も、処刑から16年間、家財没収、家名断絶だったため困窮を極めました。特に遺児亀太郎を抱え育てた妻かねは極貧だったそうです。また30年間は罪人としての汚名を着せられたまま、遺族はつらい立場でお暮らしになりました。
 
しかし漸く明治34年、国から大赦令が出されました。元宣の官軍に抵抗したという罪が許されたのです。その時にまだ存命だった父元永はこらえ切れずに男泣きをしたということです。
 
それまではお墓参りもはばかられて、暗くなってからお参りするという引け目を感じていたのですが、大赦令が出てからは、市民の誰が建ててくれたかわからないという立派なお墓に堂々と墓参できたのでした。(長源寺に現存)

 

長源寺に現存する元宣のお墓

 

 

明治時代から人々を見守っていた像

 

大赦令が出て、市民が考えてくれたことは「ご家老の遺徳をしのぶ銅像建立」でした。ありがたいことであります。
 
明治34年、元宣の33回忌にあたり、「水野三郎衛門元宣の徳を顕彰するため」の銅像を建てるべく、旧藩士山形市長雄倉茂次郎、旧藩士林鉄太郎(両羽銀行支配人)、坂部藤太郎(印刷業)等が主唱し、45名が発起人となって募金運動を起こしました。その翌年、明治35年9月、笠をかぶった初代の銅像が建てられました。

 

明治35年に建てられた初代銅像

 

しかし大東亜戦争(第二次世界大戦)を勝ち抜くために金属回収され、銅像は供出されたのです。
 
昭和19年の秋、神社氏子総代たる村山忠太郎、高田清三郎、中館政雄、鈴木傳六、庄司弥四郎、戸田鉄太郎、峯田健吉等の主唱により、非金属の像を再建しました。そして昭和21年に、彫刻家服部午山が不二之氏と一緒にフランスから砂を取り寄せてコンクリート塑像を制作しました。その後破損してきた塑像を、昭和55年に塗装屋の社長がブロンズ色に修復しました。

 

水野三郎右衛門元宣の像は、形を変えながらも約110年間山形市民を見守り続けてくださっています。

 

 

さらに100年先の未来もこの地を支える銅像へ

 

しかし現在の塑像は、70年以上建っています。像の外壁は定期的に塗り替えも行われているため、一見きれいな状態に見えますが、コンクリートでできている内部は、寿命がきており、いつ崩れてもおかしくない状態です。そこでこのたび、元宣の銅像再建を決意いたしました。
  
先人たちの活躍なくして今日の山形はないことを忘れ去られぬよう、後世にまで語り継ぎ慎み敬いつつ守り続けていくことが我々の使命であると考えます。

 

現在劣化が進んでいる元宣像(左:ひび割れている両手、右:塗装が剥がれている右足)

 

 

クラウドファンディングの実施理由

 

銅像の再建費として最低でも1,000万円の費用が必要となる見込みです。そこで今回、このクラウドファンディングという方法で、より多くの方々へ現状をお知らせし、ご協力を募ることにいたしました。

 

■目標金額:400万円
■実施内容:2022年04月30日までに水野三郎右衛門元宣の銅像を完成させること

 

山形の恩人「首席家老  水野三郎衛門元宣の銅像」を再建して遺徳を偲ぶためには、皆様のお力が必要です。温かいご支援を何卒お願いいたします。

 

 

実行者からのご挨拶

 

大久保靖彦

山形藩首席家老水野三郎右衛門元宣を後世に語り継ぐ会 会長

 

 

水野三郎右衛門元宣は激動の幕末期に山形藩の人々を惨害から守った恩人です。明治35年に初代の銅像が建てられましたが、第二次世界大戦完遂のため供出されました。後に当時の山形市長と市民有志の尽力で昭和21年に彫刻家服部午山の手により現在の塑像が再建されました。

 

それから75年が経過し傷みが酷くいつ倒れるかわからない状態です。この度元宣の遺徳を後世に伝えるべく銅像再建を計画いたしましたが多大な再建費が見込まれ苦慮しています。どうぞ皆様方の温かいご支援をよろしくお願いいたします。

 

水野幸子

水野三郎右衛門の子孫/香澄倶楽部(旧水野藩家臣の会)幹事

 

 

公開されたこのプロジェクトをご覧下さり誠にありがとうございます。
 
新型コロナウイルス感染症の影響で人が集まれない、会食を通して親しく語り合えない時期ではありますが、クラウドファンディングという仕組みを使って、ご支援を賜りたく存じます。
 
江戸時代末期の山形は商業が盛んで特に「紅花」は有名です。最上川流域は紅花の大産地で、紅花商人たちが船運で京都や大阪に多くの紅餅を売り、また京文化の物を買い取り深く結びつき、往復商う「のこぎり商売」で大きく財をなしました。でも戦争は畑も家も蔵も寺にも火を放ちます。もし、戊辰戦争で天童藩や新庄藩のように火の海になっていたら、人も財も無くして焦土となった山形の発展は大きく遅れたことでしょう。

山形市が県庁所在地になった理由の一つとして壮絶な戊辰戦争の後に「領地領民の保全」があげられます。未来の発展になによりの貢献であり公益でございます。
 
山形を惨害から守り、県都を山形に導いた水野三郎右衛門元宣の銅像再建にご支援をいただき、今後も山形市と県の安全と繁栄が続きますように宜しくお願いいたします。

 

 

応援メッセージ

 

佐藤 孝弘 様

山形市長 

 

 

水野三郎右衛門元宣公は、幕末の激動の時代に山形藩の家老を務めた人物です。戊辰戦争の際、旧幕府方についた山形藩に新政府軍の攻撃が迫る中、元宣公は領民を救うために奔走し、自らの命と引き換えに山形藩と領民を戦火の危機から守り抜きました。そのおかげで、山形市には、古い街並みや、霞城公園をはじめとする歴史的建造物など、古き良きものが現在も残っております。


そのような元宣公の功績を讃えようと、今から120年ほど前に元宣公の銅像が建立され、昭和21年には2代目の像が再建されましたが、それから75年が経過し、老朽化が酷く、このたび有志により改めて建立することになりました。


元宣公の銅像再建は、地域を愛し、郷土を守った遺志を受け継ぎ、将来にわたり、この遺志を次世代に伝えるために価値のある取り組みです。1人でも多くの方のご賛同を得られれば幸いです。

 

水野 忠俊 

旧山形水野藩16代当主 

 

 

水野忠元公を藩祖として代々続き13代忠弘で江戸時代が終わりました。忠元公の弟守信が水野三郎右衛門の祖であります。兄が藩主で弟が家老ということでずっと縁続きです。戊辰戦争では12代13代の藩主が京都に軟禁され歯がゆい立場でした。忠精の帰国が許されない状況でした。身を挺して山形藩を救った三郎右衛門元宣をはじめ国元の家臣達はよく頑張ったと思います。

 

長谷川吉茂 様

 

 

ふるさと山形に暮らす領民を救うため身を挺して奔走され、兵火の災害から救ってくださった大恩人である山形藩首席家老 水野三郎右衛門元宣公の功績は将来にわたり、決して忘れてはなりません。

 

山形市民の一人として、恩人の遺徳を後世にしっかりと語り継ぎ、そして偲ぶべく、「銅像再建」に向けてご支援申し上げます。郷土に対する先人の功績を学ぶことにより、地元山形に対する理解と愛着をさらに深めていただく契機となれば幸いです。

 

三浦新一郎 様

 

 

現代に生きる我々が豊かで幸せな日々の生活を営むことが出来るのは、先人たちの数多くの活躍があっての事であり、山形を戦火から守ってくださった山形藩首席家老 水野三郎右衛門元宣公の遺徳は、現役世代のみならず次世代を担うであろう子どもたちに至るまで、末永く大切に後世に伝えていかなければなりません。

 

山形市民の一人として微力ではありますが、ご支援させていただきますとともに、本事業の成功を心よりお祈り申し上げます。

 

鈴木 隆一 様

株式会社でん六 代表取締役社長

 

 

この度、齋藤宮司さんのお話をお聞きし、その熱き思いに心を動かされ銅像再建の応援者に加わることを決意しました。長年仰ぎ見てきた塑像は郷土の先人の皆さまが昭和19年、戦時中にもかかわらず、一念発起して立ち上がり昭和21年に建立したものです。当時の趣意書には主唱者の一人として私の祖父鈴木傳六の名も見えます。 

 

銅像再建はふるさとの歴史を未来につなぐために不可欠の有意義な事業であり、皆さまのご参加を心からご期待申し上げます。 

 

服部公一 様

作曲家/彫刻家/ 服部午山氏の男孫

 

 

水野三郎右衛門元宜は明治2年、山形市内の長源寺で斬首された人物享年26才。 彼は天保の改革で歴史的人物水野忠邦の縁戚で山形藩首席家老だった。私は当時存在した列藩奥羽同盟について詳らかにしないのだが、当時山形の藩主は京都詰めで、地元軍を率いる総大将が三郎右衛門だった。このとき圧倒的に優勢な官軍から市内に攻め込むとの最後通告があり「後はこれまで、と敗戦を認めて」と決心して三郎右衛門が、その身と引き換えに山形市内長源寺でただ一人惨殺された。

 

彼はそもそも遠州浜松の生まれで幼児の時山形に来た人で山形と縁の薄いひとだった。 現在の七日町あたりの主要町筋はこの若者の身体と引き換えに残されたのである。一青年家老の死が今の県都山形の基を作ったと言えよう。山形市街は彼の命と引き換えなのだ。 この時大久保靖彦氏の祖先も今の中山町長崎あたりで戦死しておられたらしい。 

 

山形人は昔の事を忘れやすい人たちであるらしい。私が良く知っている昭和 20 年の 敗戦のころの話さえも最近滅多に出てこない、まして明治2年は遠すぎる。東北で も仙台にはお城の上にの馬上に伊達政宗のお姿が見え、霞城公園の最上義光の3 メートルの立派な銅像をたてても、若干 26 才で命をたった水野三郎衛門を知っている人はいない。しかし彼こそが現在の山形市を命を懸けて残した大切な人物なのだ。 

 

その人物を顕彰しようと明治35年等身大の銅像が有志により建設され、それが昭 和18年政府の金属品供出命令により壊された(その残骸が山形工業高校の前に無 駄な山積みになっていたのを私は見ている)。この銅像が戦後再建設されることになり昭和21年に2メートル強の立像が再建された。制作は山形在住の周刻家服部午山、息子不二之によった。これには市長大沼保吉、後の市長大久保伝蔵氏らなど の大勢の方々の後援によった。当時は金属の利用が困難でやむを得ずセメントにて制作することにした 。セメントで塑像を制作する技術は当時開発されたばかりで不二之が導入し、午山が 全体を制作した。これは午山の最後の作品である、彼83 才であった。 

 

おさゆ 様

講談師

 

 

講談の「講」には歴史という意味があり、過去の歴史をわかり易く話をするのが講談師です。山形の歴史を語る上で、決して外す事のできない人物が戊辰戦争の大偉人【水野三郎右衛門元宣 公】。山形生まれ山形育ちの私が、心を込めて語っております水野三郎右衛門元宣 公のお人柄をぜひ「戊辰戦争と山形藩」の講談でご堪能いただければと思います。

 

齋藤 博輝 様

香澄倶楽部(旧水野藩家臣の会)幹事

 

 

水野三郎右衛門元宣公は戊辰戦争の際に身を挺して山形を戦火から守った偉人です。彼の決断なくして今日の山形はないと思っております。人望篤く、27才という青年宰相、藩士一同になり代わって一人自ら戦争責任者を名乗り出て処刑されたのです。もし自分自身が元宣と同じ立場にあったら同じ決断と覚悟が出来たものか疑問です。


水野三郎右衛門元宣公は刑死後も像という形で山形を100年以上見守ってくださっています。山形を守った大恩人の像を守り、これから生まれてくる子供たちに至るまで語り継いでいくことは大変素晴らしいことで、我々の使命であり恩返しであると思うところです。今回の事業の大成功を心からお祈り申し上げます。

 

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プロフィール

お花が咲き誇る美しい季節に、また元宣公の命日後すぐにこのプロジェクトを公開させていただきます。大久保様や斎藤様のお力添えのお陰です。応援メッセージをいただいた皆様にも、ご支援者様にも、実行者として子孫として心から感謝申し上げます。

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リターン

10,000


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A|スタンダード

●お礼状
●銅像再建後のお写真
●再建後の銅像ステッカー

支援者
69人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

30,000


B|山形銘菓でん六豆&山形のお漬物

B|山形銘菓でん六豆&山形のお漬物

●お礼状
●銅像再建後のお写真
●再建後の銅像ステッカー
●山形銘菓 でん六豆
●山形のお漬物 さくらんぼ漬


※お漬物は食品販売の許認可を保有する「渡辺近七商店」からご提供させていただきます。
※でん六豆は食品販売の許認可を保有する「でん六」からご提供させていただきます。

支援者
4人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

50,000


C|講談師「おさゆ」のオンライン講談

C|講談師「おさゆ」のオンライン講談

●お礼状
●銅像再建後のお写真
再建後の銅像ステッカー
●山形銘菓 でん六豆
●山形のお漬物 さくらんぼ漬
●講談師「おさゆ」のオンライン講談

※お漬物は食品販売の許認可を保有する「渡辺近七商店」からご提供させていただきます。
※でん六豆は食品販売の許認可を保有する「でん六」からご提供させていただきます。
※オンライン講談は視聴用限定URLを配布します。視聴有効期限は2022年4月までです。

支援者
4人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

100,000


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D|香澄倶楽部による歴史説明

●お礼状
●銅像再建後のお写真
再建後の銅像ステッカー
●山形銘菓 でん六豆
●山形のお漬物 さくらんぼ漬
●講談師「おさゆ」のオンライン講談
●香澄倶楽部による歴史説明

※お漬物は食品販売の許認可を保有する「渡辺近七商店」からご提供させていただきます。
※でん六豆は食品販売の許認可を保有する「でん六」からご提供させていただきます。
※オンライン講談は視聴用限定URLを配布します。視聴有効期限は2022年4月までです。
※歴史説明は2021年10月、11月、2022年4月頃開催予定です。詳細は9月頃ご案内いたします。現地までの交通費等はご自身でのご負担となります。

支援者
3人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

300,000


E|山形城跡のご案内 

E|山形城跡のご案内 

●お礼状
●銅像再建後のお写真
再建後の銅像ステッカー
●山形銘菓 でん六豆
●山形のお漬物 さくらんぼ漬
●講談師「おさゆ」のオンライン講談
●香澄倶楽部による歴史説明
●木原氏による山形城跡のご案内 

※お漬物は食品販売の許認可を保有する「渡辺近七商店」からご提供させていただきます。
※でん六豆は食品販売の許認可を保有する「でん六」からご提供させていただきます。
※オンライン講談は視聴用限定URLを配布します。視聴有効期限は2022年4月までです。
※歴史説明と山形城跡のご案内は2021年10月、11月、2022年4月頃開催予定です。詳細は9月頃ご案内いたします。現地までの交通費等はご自身でのご負担となります。

支援者
2人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

500,000


F|銅像の台座にお名前掲載

F|銅像の台座にお名前掲載

●お礼状
●銅像再建後のお写真
再建後の銅像ステッカー
●山形銘菓 でん六豆
●山形のお漬物 さくらんぼ漬
●講談師「おさゆ」のオンライン講談
●香澄倶楽部による歴史説明
●木原氏による山形城跡のご案内 
●銅像の台座にお名前掲載(希望制)

※お漬物は食品販売の許認可を保有する「渡辺近七商店」からご提供させていただきます。
※でん六豆は食品販売の許認可を保有する「でん六」からご提供させていただきます。
※オンライン講談は視聴用限定URLを配布します。視聴有効期限は2022年4月までです。
※歴史説明と山形城跡のご案内は2021年10月、11月、2022年4月頃開催予定です。詳細は9月頃ご案内いたします。現地までの交通費等はご自身でのご負担となります。

支援者
0人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

1,000,000


L|銅像の台座にお名前掲載(6/3追加)

L|銅像の台座にお名前掲載(6/3追加)

●お礼状
●銅像再建後のお写真
再建後の銅像ステッカー
●山形銘菓 でん六豆
●山形のお漬物 さくらんぼ漬
●講談師「おさゆ」のオンライン講談
●香澄倶楽部による歴史説明
●木原氏による山形城跡のご案内 
●銅像の台座にお名前掲載(希望制)

※お漬物は食品販売の許認可を保有する「渡辺近七商店」からご提供させていただきます。
※でん六豆は食品販売の許認可を保有する「でん六」からご提供させていただきます。
※オンライン講談は視聴用限定URLを配布します。視聴有効期限は2022年4月までです。
※歴史説明と山形城跡のご案内は2021年10月、11月、2022年4月頃開催予定です。詳細は9月頃ご案内いたします。現地までの交通費等はご自身でのご負担となります。

支援者
0人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

3,000


alt

G|お気持ちコース

ーーーーー
記念品をお届けしない代わりに、ご支援の多くをプロジェクト実施に充てさせていただくコースです。
ーーーーー
●お礼状
●銅像再建後のお写真

支援者
24人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

30,000


alt

H|【記念品不要の方向け】応援コース

ーーーーー
記念品をお届けしない代わりに、ご支援の多くをプロジェクト実施に充てさせていただくコースです。
ーーーーー
●お礼状
●銅像再建後のお写真

支援者
15人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

100,000


alt

I|【記念品不要の方向け】応援コース

ーーーーー
記念品をお届けしない代わりに、ご支援の多くをプロジェクト実施に充てさせていただくコースです。
ーーーーー
●お礼状
●再建後の銅像のお写真

支援者
3人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

50,000


alt

M|【記念品不要の方向け】応援コース(6/3追加)

ーーーーー
記念品をお届けしない代わりに、ご支援の多くをプロジェクト実施に充てさせていただくコースです。
ーーーーー
●お礼状
●銅像再建後のお写真

支援者
3人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

500,000


J|【記念品不要の方向け】応援コース

J|【記念品不要の方向け】応援コース

ーーーーー
記念品をお届けしない代わりに、ご支援の多くをプロジェクト実施に充てさせていただくコースです。
ーーーーー
●お礼状
●再建後の銅像のお写真
●木原氏による山形城跡のご案内 
●銅像の台座にお名前掲載(希望制)

※山形城跡のご案内は2021年10月、11月、2022年4月頃開催予定です。詳細は9月頃ご案内いたします。現地までの交通費等はご自身でのご負担となります。

支援者
0人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

1,000,000


K|【記念品不要の方向け】応援コース

K|【記念品不要の方向け】応援コース

ーーーーー
記念品をお届けしない代わりに、ご支援の多くをプロジェクト実施に充てさせていただくコースです。
ーーーーー
●お礼状
●再建後の銅像のお写真
●木原氏による山形城跡のご案内 
●銅像の台座にお名前掲載(希望制)

※山形城跡のご案内は2021年10月、11月、2022年4月頃開催予定です。詳細は9月頃ご案内いたします。現地までの交通費等はご自身でのご負担となります。

支援者
2人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年5月

プロフィール

お花が咲き誇る美しい季節に、また元宣公の命日後すぐにこのプロジェクトを公開させていただきます。大久保様や斎藤様のお力添えのお陰です。応援メッセージをいただいた皆様にも、ご支援者様にも、実行者として子孫として心から感謝申し上げます。

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