山谷は東京の北部に位置する日本三大ドヤ街の一つである。ドヤというのは主として肉体労働者が滞在する為の簡易宿泊施設であり、「到底宿(ヤド)と呼べる様なものではない」と自嘲的に読んだのが始まりと言われている。時にスラムと言われたこの街も、労働者の高齢化に伴って生活保護受給者がその大半を占める福祉の街になり、過去の面影はかすかに残るのみである。

 

 ここ四年間、私は山谷の帳場で週二回働きながらこの街を見て来た。大きな歴史の一つに終止符が打たれようとするのを黙って見過ごせない、という非常に単純な動機である。長い歴史からすれば四年間など微々たるものだが、それでもこの街の変化を感じるには十分な時間であった。いくつものドヤが消え、その跡地が駐車場になり、多くの高層マンションが建った。山谷の空は幾分狭くなったように感じる。多くの人と出会い、その多くはどこへとなく消えて行った。この街の住人は流動的だが、根本的な街の性質は変わる事は無い。私は山谷という街の痕跡が完全に無くなるまでずっとこの街を撮り続けるつもりでいる。

 

「山谷」という地名は俗称で、現在の台東区清川、日本堤周辺を指す。「山谷町」と地名として正式に使用されていたのは昭和41年までで、住居表示制度の実施により地図からその名を消した。しかし、「山谷」という名前は、いわばこの土地に染み付いた呼び名として今日に至るまで使われ続けている。一般的な部外者にとって山谷--「サンヤ」もしくは「ヤマ」と言えば誰しもが似たイメージを抱くだろう。暴動に荒れ狂う肉体労働者、路上で朝から酒を喰らう瘋癲達、近づき難いスラム街、社会的水準に満たない荒れくれものが集まる街--その大半は、差別と偏見に満ちている。

 

私が「山谷を撮っている」と言えば、「あそこには人殺しが多いのでしょ?」などと現実離れした質問を受ける事がままある。過去の山谷にそう思わせる事象があったことは確かに否めないが、そのイメージが今でも人々の心の中に根付いているという事を端的に物語っている。高度成長期、肉体労働者の需要が急増し、山谷は「労働者の街」として確立する。こういった経緯から、彼らが日本経済の立役者と言っても過言ではないのだ。しかし、こうした日雇い労働者の暮らしは極めて劣悪で、薬物依存、アルコール中毒になる者も少なくは無く、事実上彼らを管理する暴力団への反発から数万人規模の暴動も幾度となく繰り返された。先のイメージはこうした労働者達の切迫した日常から生じたものである。時が経ち、かつての肉体労働者達は負のイメージを背負わされ、日の目当たらず細々と暮らしているのが現状なのだ。

都内を歩いていると、ごくたまにストンと山谷にいるような感覚を覚えることがある。我に返ってあたりを見回すともちろんそこは山谷ではないが、確実に「山谷臭」がするのだ。板橋のどこそこであったり、浦和競馬場であったり、はたまた銀座の中心部であったりと。それは様々な場所に点在している。山谷が福祉の街になろうと、消えてしまおうと、確かに「山谷」のイメージは時代に流される事なく人々の心の中に普遍的に存在する。「山谷」という言葉はもはや地名ではなく、汚らしいドヤ街、しいてはそれに付随するイメージの代名詞になっている。

 

「山谷」という言葉は、もはや一人歩きしている。本来の場所を離れ、その抽象化されたイメージだけが拡散している。だとすれば、地名を表す「山谷」という言葉は失われたものであると言っても過言ではない。だから僕は言うのだ、山谷は消えたと。山谷に付随していたイメージはもはやどこにでも存在する。他人事のように山谷を見ていた時代は終わり、誰しもがその当事者になろうとしている。それこそがこの日本という現代社会ではなかろうか。

 

ところがである。つい先日、私が帳場にいると、オーストラリアから来た外国人男性がロビーの電話で話しているのが聞こえてきた。労働センターで貰った求人票を持って日雇いの仕事を探している様子である。私は次の言葉に大変驚いた。「ワタシハサンヤニイマス」と。普通なら南千住とか今の地名である清川なとどと答えるはずである。私は山谷で、まさに現在進行形で生きている「山谷」という言葉を聞いた。欧米圏の彼がどういう理由で山谷で職探しをしていたのかは知らないが、思わぬ所に「山谷」が生き続けていることを知ったのであった。

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