いまだに福祉の街山谷といった内容の番組を時々目にする。帳場にいると、中を撮らせてくれないかといった趣旨の電話も少なからず受ける。番組名は言わないが、某有名番組の取材というので、「帳場さん」として一度出演したことがある。部屋の中を撮影し、ドアを開ける所を撮らして欲しいというので、手元しか写さないというから気軽に応じた。

 

しかし、あとにその放送を見てえらく驚いた。番組の流れとしては、山谷へ逃げ込んだ覚せい剤の売人を必死の取材に追跡、独自調査によってその居場所を突き止めたが、宿の主に頼んで部屋のドアを開けてもらうと、間一髪で雲隠れした後だった、というものであった。その時の主がドアを開ける映像には、はっきりと私の手が映し出されていた。

 

 

一つの言葉が全てを包括しているわけではないのに、メディアというのは、大半のがそうだからとイメージを作ってしまう。そして大半の視聴者はそれを鵜呑みにしてしまう。私は、ただ目の前の事実をピックアップして、その事実につきまとう種々の判断は第三者にまかせることにしている。何が正義か、悪かという話はそれこそ私がすることではない。これはその判断を放棄しているわけではなく、写真家として余計な情報を付加したくないという考えがあるからである。

 

山谷が福祉の恩恵を受けることになるのは、今にはじまったことではなく、90年代からすでにそういった言い回しでの報道が、テレビ番組などで取りあげられている。

 

山谷に関する番組を見ていると、時々複雑な気持ちになる。もちろん、様々な医療問題を抱えている街であることは間違いないし、現状を伝えるのは大切なことだ。それによって、少なからず良い方向へいけばいいと私も思う。ただ、山谷の人を救う人がまるでヒーローのように扱われ、「かわいそう」な人としてしか山谷の人は描かれない時もある。その人がどうしてそうなったとか、もっと一人の人として取り上げればと思ってしまう。単にその人が歌がうまいとか、豆腐がすきだとか、そういう情報の一つでもあれば見ている側の感じ方も違うのではなかろうか。

 

山谷は福祉の街ですらないというのが私の思うところだ。

 

密度の差こそあれど、山谷を現時代社会の象徴の一つとして取り上げるのなら分かるが、山谷で起きている事をあたかも、山谷でしか起きていないと感じさせてしまうのはよろしくない。番組を見た人のTweetなどを見ているとやはり、救う側に対する賞賛の声は聞かれても、救われる側への意見はせいぜい「可愛そう」「まだ日本にスラムがあるのか」という内容くらいだ。

 

帳場をしていると、救わることのない人の存在の方が目についてしまう。
20年以上滞在し、一人で歩けなくなった方がいた。

「トイレで一時間以上倒れている」

二階のトイレへ行くと床に転倒し、その際に頭をうったせいで流血をしている姿が飛び込んで来た。私としても、目の前で倒れていて放っておけない。あの手この手を尽くしてみたが、最終的にはその方の家族に判断を委ねるしかなかった。電話で言われた一言は「忙しいから勝手にしてくれ」というものだった。

 

救いの手が伸びない人もいることは事実なのだ。この話に関しては、次回に続けたいと思う。

 

追記

写真展という形は別として、私なりに見て来た現状を伝えることに協力してくれる方を探しております。どこかの施設の壁でも構いませんし、なんらかの形で発信で伝えて行きたいと切に思うのです。是非ともよろしくお願いします。

 

 

 

新納

 

 

新着情報一覧へ