志ある日本の若者を起業家に育成!日僑塾プロジェクトinベトナム
支援総額
目標金額 15,000,000円
- 支援者
- 17人
- 募集終了日
- 2018年2月19日
寄稿(仁平宏):ニートであった坂本龍馬の実像を切る!!!
今日の龍馬像は虚像である。事実は小説(司馬遼太郎「竜馬がゆく」)より奇なのだ。このケースは国内だけに蟄居した者の典型的な悪例である。西郷隆盛も然りだ。然して、日本のニート達をベトナムの日僑塾に招きたいのだ。
龍馬は今様ニートであった。
龍馬の生涯の夢は蝦夷の開拓にあった。
龍馬の天下国家論は小説(フィクション)での虚像だ。
結論は、私はニート達をベトナムの日僑塾に呼びたいのだ。
それでは、坂本龍馬の実像を暴く時代考証に入ろう。
龍馬は明治37年まで無名であった。
明治37年、日露戦争勃発の数日前、昭憲皇太后の夢枕に白衣の武士が現れ、「日本は勝てます」と宣ったのだ。当時の宮内大臣で土佐出身の田中光顕がその武士は坂本龍馬だと応えた。
こうして皇室から土佐藩出の坂本龍馬の名前が出て一躍有名になったのである。加えて、薩長藩閥政治の批判に対する緩衝役として土佐藩の龍馬を祭り上げるには適役であった。
さらに、明治期後半に講談が全盛期を迎え、‘講談師見てきたような嘘をいい’ という誇大表現が大衆受けした。当時の有名な講談師としては伊藤痴遊がいた(当世の司馬遼太郎)。
坂本家の家系は金貸し業(サラ金業)であった。
龍馬は次男で、ニートないしフリーター(部屋住み)であった。
龍馬が26歳までフリーターでいられたのは坂本家が金貸しで裕福であったためだ。
当時の家督相続制度は長子(嫡男)単独相続であった
次男に生まれると、長男が死なない限り家督は継げない、部屋住みとなり長男(夫婦)の扶養家族となる。なお、部屋住み(へやずみ)とは、一生独身のまま、嫡男に扶養されることをいう。いわゆる、パラサイト・シングルだ。
13歳頃まで腑抜けのように寝小便の癖があった。気丈な三人の姉がいた末っ子であり、遠縁のおたべという名の女性が添い寝して男女の営みまで指導されていた。長じて大言壮語する見栄っ張りな虚勢癖はこうした家庭環境から生まれた。
船中八策は龍馬の発案ではない
そもそも船中八策という名だが、これは岩崎鏡川という土佐出身の歴史学者が昭和初期に使い始めたが、龍馬のものでないと明言している。龍馬作と言われるものが「新政府綱領八策」だが、これも後年付けられた名称である。船中八策の骨子は当時常識化しており、龍馬はこの時代の趨勢から既に取り残されていた。当時は大政奉還論が盛んで、横井小南、松平春獄、大久保一翁、赤松小三郎、真木保臣など名だたる面々が主導していたものだ。
龍馬は薩長盟約の仲介者ではない。
いわゆる薩長盟約は1866年3月7日に薩摩藩の西郷・大久保と長州藩の桂が龍馬・中岡慎太郎の斡旋で成立したとするのが通説であるが、これも誤りである。
薩長盟約成立までの実務者の中心人物は、薩摩藩は五代友厚、長州藩は井上聞多(馨)である。五代・井上が駐日英国公使のオールコック、後任のパークス(1865年から)と英語で交渉、折衝まで行ってきた。2人ともロンドンへの密航留学生である。英語はデキる。世界観は共有している。
実は、薩長盟約はロンドンの地で既に行われていたのだ。
1年4ヶ月前の1865年7月2日にロンドンで薩長協約(?)が成立していたのである。この時まで、薩長は仇敵の間柄であった。
1963年(文久3)4月に次の長州五傑ロンドンに密航した。井上聞多(28歳)、伊藤博文(22歳)、野村弥吉(20歳)、山尾庸三(26歳)、遠藤謹助(27歳)の5人だ。(ロンドン大学にはChoshu Five(長州ファイヴ)として顕彰碑が建てられている)。
後を追うように、1865年(慶応元年)3月、薩摩藩第1次英国留学生がロンドンへ発った。(鹿児島中央駅の正面に「若き薩摩の群像」の像が建っている)
ロンドンに着き、薩摩藩の連中は吃驚した。偽名まで使って、国禁を犯して密航してきたのに、自分たちより早くロンドンに日本人がいたことに仰天した。
日本人というのは面白いもので、(今でもそうだが)日本人同士というと海外では一挙に仲良くなってしまうのだ。一人だけだとテレるが。
そして、犬猿の仲であった両藩であったが、異国で「我々は同じ日本人だ」という共通の感覚が芽生えた。路上で初めて知り合った翌日には薩摩藩の畠山は長州藩の山尾の誘いで大学のスポーツ大会を一緒に観戦しに行っている(畠山の日記による)。皆、若いから距離が縮まるのが早い。この留学生同士の交流は日本で末永く続いた。
井上は当時を回想して「国家に対する憂いの思いは、国内に居る時よりも寧ろ海外に在る時が切実なのを覚えた」と言っている。
蓋し、同感である。日僑塾をベトナムで立ち上げる所以だ。
巷の龍馬伝などでは、龍馬と薩摩藩との緊密な関係を記述しているが、時の薩摩藩主の島津久光(在位1858-1876)は藩外者及び脱藩者・浪人者(藩内でも)を極度に嫌悪し、藩内に徹底させていた。他藩の者と差別するために、独特な薩摩弁の使用を藩内に強制までさせていた。
龍馬のような土佐弁を喋る浪人者は薩摩藩重臣からは最も排除された軽輩であったのだ。
亀山社中の龍馬{次男}は武器商人グラバーのエージェントに過ぎず、亀山社中は薩摩藩のダミー会社として長州への武器支援を行うことがその主目的であった。龍馬自身は一介の商人としてビジネスとしての仲介料だけが任務である。それどころか、龍馬の頭の中は亀山社中の経営難で解散騒ぎの最中で、土佐藩からの大極丸の代金未払い問題で差押さえが重なっていた。薩長両藩がどうなろうともその関係に関知する余裕も興味は全くなかった。同時に、龍馬は社員の給料は遅滞、金策で頭が錯綜し、自己破産状態であった。
列席した面々は裃の正装であるが、龍馬はブーツを履いて小汚い商人風体で、ヒゲすら剃ってなかった。幕末では藩に属さない身分の低い、一介の武器商人は武家階級の場には同席できない。まして、出自は金貸しの商人である坂本家の次男という素性は薩摩側では事前に知っていた。
長州藩の面々は、龍馬という男を知らなかった。龍馬には同盟を調整ないし保証する身分ではない、身分格差が大き過ぎた。事実は小説より奇なのだ。司馬遼太郎は平成の講談師と言えよう。
蝦夷地(北海道)の開拓が、龍馬の生涯の夢であった。
龍馬の頭の中ではひたすら大極丸で蝦夷地の開拓(逃避?)への秘策を練っていた。
‘日本を今一度せんたくいたし申候’ とかの発言があったとするが、蝦夷地のせんたくであった。
この迷言は講談師作である。お龍も北海道弁を練習していた。
なぜあの動乱時に蝦夷地なのか、私には不案内であるが、ただ、当時の土佐の人たちは蝦夷地や北方の視察をしていたことは事実である。
以上、歴史を学ぶ事は、今を知る事である。今は歴史的に作られるのだ。
誰もが海外で起業すれば、龍馬的人生が歩めるものだ。
ニート諸君、日僑塾は待っている。英雄などはいない。
リターン
5,000円
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(後日写真付きメールにてご報告)
・日僑ネットワークへの優先参加権
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- 9
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- 発送完了予定月
- 2018年7月
10,000円
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