ラグビーワールドカップに向かう釜石を映像作品に! 序章

ラグビーワールドカップに向かう釜石を映像作品に! 序章

支援総額

528,000

目標金額 500,000円

支援者
31人
募集終了日
2015年2月23日

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2015年02月04日 10:21

2015年1月24・25日 釜石で艦砲射撃経験者の取材

 みなさまお変わりなくお過ごしでしょうか。おかげさまで、資金募集期間のこり19日で、目標金額まで10万円を切りました。なんとか目標金額を達成し、みなさまのご厚意にお答えできるよう努めてまいります。

 

 さて、2015年1月24・25日、釜石で艦砲射撃経験者、6名様のインタビューをおこないました。24日にはちょうど青葉ビルで、スタジアム建設に関するアイデア出しの自由参加タウンミーティングがおこなわれており、合わせて取材することができました。

 

 23日午後11時、池袋発の深夜バス。翌8時釜石入り。
 ここで痛恨のミス! 担当左古はレンタカーを予約しておきながら、免許証を東京に置いてきた! 我ながらバカ! 海外旅行に行くのにパスポートを自宅に忘れてくるくらいのレベルの失敗です。急きょタクシーでの移動に。いったいお幾らかかるかとビクビクしましたが、結果的には要所要所で取材対象者のみなさんに送迎していただくことができ、現地での交通費はレンタカーよりお安くなりました。ご協力くださったみなさんにはこの場を借りて厚くお礼申しあげます。


 

 艦砲射撃当時21歳、箱崎の仮宿に在住。7月14日は午前中に空襲警報のあと、艦載機が一機飛来。それが去り、沖をみると米英艦隊の黒い艦影の群れが見えました。

 

 当時10歳、天神町に在住。14日は警報からすぐに爆音が響きはじめました。母親とともに最寄の防空壕に入りましたが、火の手が迫ったため山側のトンネル状の大きな壕へ移動しました。そこで泣き疲れて眠ってしまったようで、気づいたら大只越の親戚宅、15日朝でした。15日からは石応寺で何日かにわたって犠牲者のご遺体を焼くのを目の当たりにしました。
 数日して天神町い戻ってきたところ、自宅は完全に焼失していました。
 8月6日は直接の被害はありませんでしたが、終戦後も艱難辛苦の連続でした。自宅跡地に小屋を建てようにも資材がありません。配給の食糧だけでは生きていけません。再開した学校では、戦時下と同じようなペースで同級生の父親やお兄様の戦死の報が入ります。状況が劇的に良くなって生活に見通しが立つようになったのは、昭和25年に朝鮮特需が始まってからだったように思います。

 

 

 当時20歳。最初の攻撃の日は製鉄所の事務室で勤務中でした。11時40分ころに警報があり、避難をはじめましたが、演習で指定されていた鈴子の防空壕まではとても逃げられず、製鉄所構内の30人ほどの簡易壕に入りました。

 座るか座らないかのうちに風切り音と爆発音が間近で聞こえました。爆発で壕が揺れていました。爆撃が激しくなり、座れる状態でなくなったので、みな地面に伏して2時間なんとか耐えました。空襲警報解除の声があり、壕から出てみたところ、風景が一変していました。工場の煙突はまともに立っているのが一本もなく、すべて傾いたり倒れたりしていました。その様子に一同ショックを受けて座り込んでしまいました。天神町の我が家の方角を見ると真黒な煙で霞んでおり、家族の安否をたいへん心配しました。
 父が住吉町の知り合いに借りていた民家にたどりつき、家族と再会できました。みな顔を真っ黒に汚し、憔悴しきっていましたが、一人も命を奪われず助かりました。
 この攻撃が「艦砲射撃」だったと知ったのは翌日のこと。みな空襲だと信じ込んでいました。

 翌15日(日)、焼け跡でも何か残っているかもしれないからと、姉と二人で天神町の我が家へ向かいました。そこでとつぜん艦載機の機銃掃射を受けました。足元の地面に弾丸が降り注ぎ、明らかに自分たちを狙っているのが分かりました。もう一度来る、という恐怖が、いまも忘れられません。なんとか焼け残った丸太に身を隠して難を避けました。

 8月9日は早い時間から空襲警報があったり解除になったりが繰り返されたので、出勤しないでいました。11時40分ころまた空襲警報があったのですが、まさか住吉町までは攻撃されないだろうと思って、甥と一緒に押し入れに入りました。しかし近所に着弾。山へ逃げ、土を掘って顔をうずめました。そこにザーッと土が降ってきたことまでは覚えているのですが、気絶してしまったようです。我に返ったときには周囲は静かになっており、帰ると家族全員無事でした。

 8月15日の玉音放送は職場の地下食堂に集められて聞きました。どんな感想というのでもなく、ただただ泣いていました。内心、少しほっとした気持ちもありました。それ以降はとにかく食糧がなく、みなヨロヨロしていました。かぼちゃの実があればよいほうで、つるまで食べました。山には山菜があったのですが、釜石ではそれを食べる習慣がなかったようで、摘んできても食用に適さないものばかりだったりして失敗しました。

 

 

 

 当時小佐野に在住。1回目のときは運悪く釜石駅まで汽車の切符を買いに来て巻き込まれてしまいました。駅前の塹壕に飛び込んだものの頭上を覆うものがなく、しばらくして駅構内のトンネル部分に移動し、そこで難を逃れました。轟音がやむと、そこに駅員たちがたくさんの人を運び込みました。それは駅前防空壕に逃げた方々の亡骸でした。艦載機の機銃掃射を避けながら釜石街道を走っていたところ、心配したお父様が自転車が迎えにきてくれました。お父様は小佐野から市街を見ており、ほぼ生存を絶望視していたようで、息子を見つけてたいへん喜びました。

 2回目は小佐野のご自宅で。夜勤明けのお父様とともに自宅に取り残されてしまいました。畳4枚を盾にして身を縮めていましたが、隣家が全壊しているのに気づき、山へ避難。山の木々を砲弾の破片が切り裂き、青葉がひっきりなしに散り落ちてきたのをなぜか鮮明に覚えています。

 

 当時、鵜住居村に在住。村では、駅前の車庫に避難していた路線バスの横に座っていた消防団の男性が艦載機の機銃掃射の流れ弾に当たって亡くなりました。ご自身は神社の防空壕に逃げ、そこで艦砲射撃の爆発音を聞いたのを覚えています。その後、市街から避難した人々が村に押し寄せました。

 戦争中は軍事教練をやらされたり、馬を徴用されたり、良いことはなにもありませんでした。招集された人を鵜住居駅で見送る壮行会をやるのですが、その母親たちはみな泣いていました。鉄道信号機が青に変わるのを旗竿で阻止しようとする人も居ました。

 

 当時10歳、浜町在住。戦争末期、集団疎開するはずだったのですが、おねしょをするので迷惑をかけるというのを理由に釜石に残っていました。まもなく遠野に縁故疎開するつもりでした。
 7月14日は昼ご飯を食卓に運んでいる最中に空襲警報があり、すぐに艦載機が飛来、砲撃が始まりました。防空壕に逃げる暇もありませんでした。この時は湾の北側に位置する浜町に直撃弾はなく、火災の延焼も免れました。
 翌日は街中に強烈な死臭が漂っていました。家の外に埋めておいた瀬戸物を掘り起こしに出たところ、艦載機の機銃掃射にあいました。どれほどの距離かわかりませんが、本当に自分の間近に感じました。聞いたところによると、焼け出された避難者たちが沢に沿って布団を並べ休んでいるのを狙って撃っていたそうです。
 8月9日は朝から警報が何度かありましたが、やはり防空壕に入る前に攻撃が始まってしまいました。1階で肩を寄せ合って様子をうかがっていましたが、裸馬が暴れまわっている声に気づき、外を見ると近所まで火が迫っていました。裏口から出て山を登り、尾崎神社に避難しました。そこで攻撃が終わるまで過ごしましたが、家には帰れず、防空トンネルを通って西へ逃れました。
 8月15日の玉音放送は、内容は覚えていませんがたしかに聞きました。とにかく戦争が終わったらしいことは分かりました。
 8月24日に遠野に疎開。すぐに学校は再開されましたが、校庭が畑になっていたり、薪運びをさせられたりで、勉強した記憶はありません。

 市営住宅に入ることができたのは昭和24年。そこでようやく落ち着きました。 

 

 

 24日午後、青葉ビルにて、釜石リンク主催、鵜住居に建設予定のスタジアムに関するアイデア出しのイベントがありました。

 

 

 老若男女、40人ほどが参加しました。

 

 まずNPO釜石リンクの遠藤さんから主旨説明がありました。

 

 市の誘致推進室の増田さんから、世界各地における公営スタジアム運営のユニークな実例が紹介されました。

 

 ディスカッションのホスト、いやファシリテーターはNPOスクラム釜石の早川さん。ほとんど初対面の参加者のみなさんで、建設的にアイデアを出し合い、育てるためのティップスが紹介されました。

 

 まず参加者をランダムに組み合わせてチームを作ります。まずは自己紹介をして、チーム名を決めることから始めましょう。

 

 良いスタジアムとはどんなスタジアム? 突飛なアイデアを出し合いましょう。

 

 高齢者福祉施設、病院を併設、スポーツジム、周囲に風光明媚なジョギングコースを、などいろんなアイデアが出てきました。

 

 

 

出てきたアイデアたちを、実現性、コスト/メリット、時間の制約、リスクの観点から、もう一度揉み、すこしずつ明確にしています。

 

 

 最終日、こんどはアシスタント田辺がミス! ウォークマンをタクシーのなかで落としたらしい。イオンタウンのフードコートで帰りの深夜バスを待っていたときに気づいた。西円タクシーさんに問い合わせたところ、確かに運転手さんが預かってくださっていた。今夜東京に帰る旨説明すると、何とイオンタウンまで持ってきて下さるとのこと。どうもありがとうございました。

 翌朝6:00池袋着。

 

 

今回の取材*******************************

 

担当左古、アシスタント田辺

 

池袋=釜石往復 高速深夜バス 2名分 32,120円

現地1泊 2名 15,120円

現地タクシー代 12,180円

消耗品費(文具、電池、記録媒体) 3,240円

 

しめて62,660円也。

 

次回は2月11日 スクラム釜石会議の取材。

次々回は2月24日決戦。熊谷にて釜石SWがトップリーグ昇格をかけてクボタスピアーズと対戦。 

 

 

 

 

 

 

リターン

3,000


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1)オリジナル缶バッジ
2)完成作品の上映イベントへの優待参加
3)完成作品DVDの優先送付

支援者
13人
在庫数
制限なし

10,000


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1)オリジナル缶バッジ
2)完成作品の上映イベントへの優待参加
3)完成作品DVDの優先送付
4)作品エンドロールへのご芳名明記

支援者
15人
在庫数
制限なし

30,000


alt

1)オリジナル缶バッジ
2)完成作品の上映イベントへの優待参加
3)完成作品DVDの優先送付
4)作品エンドロールへのご芳名明記
5)タイミングと事情が許す限り取材撮影への体験同行

支援者
4人
在庫数
制限なし

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