#新しい将棋の歴史を一緒に【新 将棋会館建設プロジェクト|第四期】

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支援総額

85,278,000

目標金額 100,000,000円

支援者
2,728人
募集終了日
2023年6月30日

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2023年04月01日 10:00

コラム:振り返る日本将棋の歴史

このプロジェクトは、2024年に迎える日本将棋連盟100周年を記念した取り組みの一つです。

 

新たな将棋会館が、先達の意志を受け継ぎながら新たな歴史を刻み、将棋文化を次の100年につないでいく場所となるように、 皆さまと一緒に「#日本将棋の歴史」を振り返ってみたいと思います。

 

 

■将棋の起源は?

将棋の起源について、いつ誕生したかは諸説あり不確かですが、古代インドのチャトランガというゲームが元になったという説が最有力です。

 

チャトランガがヨーロッパやアジアの各地に広がり、西洋ではチェス、中国ではシャンチー、朝鮮半島ではチャンギ、タイではマークルック、そして日本では将棋と、さまざまな類似の遊戯に発展したと考えられています。

 

 

■将棋の原型「平安将棋」

1210〜1221年(鎌倉時代)に編集したと推定される習俗事典(現在の百科事典に近いもの)の『二中歴』に、大小2種類の将棋が取り上げられています。

 

後世の将棋と混同しないよう、これらは現在では「平安将棋」および「平安大将棋」と呼ばれています。平安将棋では、玉将・金将・銀将・桂馬・香車・歩兵の6種類の駒が、平安大将棋ではそれらの他に、銅将・鉄将・横行・猛虎・飛龍・奔車・注人を加えた13種類の駒が使われていました。

 

平安将棋の駒は、チャトランガの駒(将・象・馬・車・兵)の特徴をよく残していて、上に仏教の五宝を示すといわれる玉・金・銀・桂・香の文字を重ねたものとする説もあります。

 

『二中歴』13巻から(国立国会図書館所蔵)

 

 

画期的な駒の再使用ルール

時代が進むにつれて、マス目を増やしたり、駒の種類を増やしたりして、ルールを改めることが行われました。15、16世紀には現在の「本将棋」の形になったと考えられます。

 

将棋史上で特筆すべきこととして、日本ではこの時期に相手側から取った駒を自分側の駒として盤上に打って再使用できるルール、つまり持ち駒の使用が始まりました。日本独自の持ち駒使用ルールにより、将棋はさらに複雑で、奥が深くなりました。

 

 

■御城将棋と家元(「将棋の日」の起源)

約400年前の1612年(慶長17年)、幕府は将棋指しの大橋宗桂(大橋姓は没後)・碁打ちの加納算砂(本因坊算砂)らに俸禄(給与)を支給しました。やがて彼らは、家元として将棋所・碁所を唱えるようになります。

 

江戸時代を通じて、名人は大橋本家・大橋分家・伊藤家の世襲制で、一度名人位に就いたら亡くなるまで名人の終生名人制になります。二世名人の大橋宗古は、江戸幕府への献上図式『象戯図式』(詰物百番)のなかで、禁じ手のルールを初めて文章として書き記しました。

 

八代将軍徳川吉宗は、1716年(享保元年)に将軍の御前で指す「御城将棋」を年に一度、11月17日に行うことを制度化しました。(日本将棋連盟では昭和50年からこの日を「将棋の日」と定め、現在でも各地でイベントを行っています。)

 

 

■明治前期の将棋界

江戸時代の末期、天保14年(1843年)から名人空位の時代が続きました。明治12年(1879年)10月19日、長い空白期間ののち、家元の伊藤家から八代宗印が十一世名人に襲位しました。

 

伊藤宗印十一世名人は明治14年(1881年)11月に棋士の集まり「魁進社」を結成し、社員らが対局した棋譜を掲載した小冊子『将棊新報』を同年12月6日に出版します。しかし、この試みは長くは続かず、2年後の16年(1883年)8月10日刊の第五集までで打ち切りになってしまいます。

 

宗印は明治24年(1891年)3月に魁進社を「九々社」と改称して、同年5月12日に小冊子「将棋新誌」を出版します。ところが、翌25年6月25日付の第十五集までで惜しくも終刊になります。失意のうち、翌26年(1893年)1月6日に宗印は68歳(数え)の生涯を終えました。結果的に宗印は、家元としては最後の名人になったのです。

 

 

■新聞「詰将棋」の始まり

明治10年代、新聞は政論中心の大新聞(おおしんぶん)と、娯楽中心の小新聞(こしんぶん)に分かれていました。

 

新聞に初めて詰将棋が載ったのは、小新聞の「有喜世(うきよ)新聞」で、明治14年(1881年)7月17日付のことでした。

 

明治14年(1881年)7月17日付~「有喜世(うきよ)新聞」

 

新聞に初めて掲載された詰将棋(現在の表記)

 

 

 

■新聞「指し将棋」の始まり 

明治29(1896年)年2月9日付から詰将棋を連載していた「萬朝報」は、同31年1月1日付から新聞では初めて実戦、つまり指し将棋を掲載しました。以後、月に1回程度連載して約1年続きました。

 

明治31年(1898年)1月1日付~「萬朝報(よろずちょうほう)」に掲載された指し将棋の記事
伊藤宗印八段(香落ち)対小野五平七段(勝ち)戦

 

■新聞棋戦の始まりと対局料

明治40年(1907年)に神戸新聞社が、関根金次郎と井上義雄との八段同士の対局を実現した神戸大会を開き、大きな話題を呼んだことが「新聞棋戦」開始のきっかけとなりました。

 

明治41年(1908年)9月11日付~ 「萬朝報」から始まった新聞棋戦「高段名手勝継将棊」

 

以後、各新聞が続々と棋戦を掲載するようになりました。詳しくはこちらのページの「明治時代の将棋年表」をご覧ください。

 

明治維新以来、江戸幕府からの保護を失うなど苦しい道を歩んでいた将棋界は、新聞棋戦の開始により、ようやく明るい光が差し込んできたのです。

 

1908年の「萬朝報」の棋戦開始により、棋士に対局料が支払われるようになりました。段位にかかわらず1人1局2円(もりそば3銭の時代)の対局料でした。それまでは、棋譜を掲載しても雑報(ニュース)として扱われていたため、よほど大きな対局でない限り、対局料は支払われませんでした。

 

局料が支払われるようになったことは、棋士にとってとても大きな出来事でした。それでも、ほとんどの棋士は副業がなければ生活できない状況には変わりはありませんでした。

 

 

■「将棊同盟會」の結成

新聞棋戦の対局が増えるにつれ、棋士同士が顔を合わせることも増えてきます。「萬朝報」記者の三木愛花は「将棊新報」誌上で棋士の団結を訴え、1909年(明治42年)8月8日、関根金次郎八段を中心にした初の棋士団体「将棊同盟會」の結成まで漕ぎ付けます。

 

三木愛花
八段時代の関根金次郎

 

 

三派合同への機運

1921年(大正10年)5月8日に開催された関根名人披露会は、東京将棊倶楽部(関根金次郎名人派)、東京将棊同盟社(土居市太郎八段派)、東京将棊研究會(大崎熊雄七段派)の三派に分かれていた東京の棋士団体を統一する呼び水になりました。

 

棋戦を主催している新聞社にしても、一派だけでは同じような顔触れによる対局になり、新味がなく、盛り上がりに欠けました。当時の新聞棋戦は、ほとんどが勝ち抜き戦で、所属棋士の少ない団体は、なおさら切実な問題でした。

 

 

■三派出場棋戦「東西対抗報知将棋」の開始

具体的な合同の動きは、「報知新聞」主催の三派出場棋戦「東西対抗報知将棋」の開始でした。1923年(大正12年)3月17日付から連載が始まりました。

 

報知新聞には、愛棋家で知られた太田正孝副社長(のちの自治庁長官)と将棋欄担当の生駒粂蔵(筆名・翺翔)が在籍し、棋戦の充実を考え、大崎七段や三木愛花らとともに三派合同を進めていました。 

 

ところが、1923年9月1日、関東大震災が起こり、新聞社はほとんど被災しました。最も打撃を受けたのは愛花が在籍する「萬朝報」で、致命的な被害を受けました。自宅も焼失した愛花は、まもなく萬朝報社を退社しました。

 

最も早く立ち直ったのは、大阪に大資本を持つ東京日日、東京朝日の両新聞社で、ここから急速に部数を伸ばしていきました。

 

雑誌では将棊同盟社発行の「将棊新報」が廃刊になりました。この年、大崎七段後援会の大崎会が「新棋戦」を創刊しましたが、第6号で震災に遭い休刊します(1926年(大正15年)に復刊)。

 

 

■「東京将棋連盟」の結成

翌1924年(大正13年)9月8日、三派が合同して「東京将棋連盟」を結成しました。

 

発会式は東京市芝区「紅葉館」で行われ、関根名人を名誉会長、土居八段を会長、大崎、金易二郎の両七段を副会長に選びました。同時に太田正孝、生駒粂蔵、中島富治、海老塚薫、石山賢吉、鰭崎英朋の諸氏が名誉顧問になりました。 

 

(左)大崎八段 (右)金八段

 

東京将棋連盟結成から3年後の1927年(昭和2年)5月5日、大阪の木見金治郎八段派の棋正会も合流して「日本将棋連盟」を創立します。

 

 

■実力名人戦の発案と開始

徳川時代から、名人は一度名人位に就いたら亡くなるまで名人の終生名人制になっていました。しかし、300年以上続いた終生名人制は、1935年(昭和10年)に関根金次郎名人の大英断で実力による短期名人制へと大きく変貌を遂げることになります。

 

1921年(大正10年)5月、名人披露會当時の関根金次郎十三世名人

 

実力名人戦の実質的な立案者は、日本将棋連盟顧問を務めていた中島富治(とみじ。号・融雪)でした。中島は初めは土居市太郎八段の後援者でしたが、次第に将棋界全般にかかわるようになりました。

 

実力名人戦の立案者、中島富治

 

■阿部真之助の内幕記事

名人戦の主催紙は、東京日日新聞・大阪毎日新聞に決まりました。東京日日新聞と大阪毎日新聞は、1943年(昭和18年)1月1日、新聞統制により題字を「毎日新聞」に統一し、現在に至っています。

 

実力名人戦独占掲載の社告=1935年5月1日付

 

中島とともに名人戦の成立にかかわったのが東京日日新聞学芸部長の阿部真之助(のちNHK会長)でした。

 

「サンデー毎日」誌上に終生名人制への批判記事を執筆した阿部に対して、かねてから同じ意見を持っていた中島は、同紙将棋担当記者の黒崎貞治郎(「梅木三郎」の筆名で「長崎物語」「空の神兵」などを作詞)を通じて実力名人戦の創設を持ちかけます。

 

 

■名人戦関連の新聞記事

以後、主催紙の東京日日新聞・大阪毎日新聞は、名人戦開始の予告記事をたびたび載せ、盛り上げていきます。

 

1935年6月30日付

 

1935年7月6日付

 

本棋戦では当初から指し手の書き方を「7六歩、3四歩」と算用数字、漢数字の組み合わせに変えました。この方式は、ほかの新聞社・雑誌も追随して現在も続けられています。発案者は大阪毎日新聞の樋口金信記者といわれています。それまでは「七六歩、三四歩」というように漢数字だけでした。

 

東京日日新聞社・大阪毎日新聞社主催「名人決定大棋戦」の第1局第1譜
花田長太郎八段(勝ち)対金子金五郎八段戦の観戦記=1935年7月7日付

 

この観戦記は、樋口記者の「あゝその日は來た!!」の書き出し(1935年7月7日付)でも有名です。本棋戦を実施中に神田事件、南禅寺の決戦、天龍寺の決戦など、将棋史上に残るいろいろな出来事が起こっていきます。

 

 

──────────────

 

たくさんの棋士や、将棋を愛する人々の手で、はるか昔から脈々と受け継がれてきた将棋文化。新たな将棋会館の建設は、この先も変わらずに将棋文化をつないでいくための大きな一歩となると、私達は確信しています。

 

そしてこのクラウドファンディングを通じて、これからの将棋の歴史の1ページを皆様と一緒につくっていけることを、たいへん嬉しく思っております。

 

ぜひご支援という形でのご参加を、何卒よろしくお願い申し上げます。

リターン

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【限定コラボ】名探偵コナン キャラクター将棋駒根付(7種より1種)+ステッカー

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●お礼のメール
●江戸川コナンデザインステッカー
●名探偵コナンキャラクター将棋駒根付
下記全7種より1種をお選びいただきます。
①江戸川コナン②羽田秀𠮷(太閤名人)③工藤新一④毛利蘭⑤灰原哀⑥赤井秀一⑦安室透(降谷零)

※実際の将棋駒としても使われる駒木地に印刷します。
※本物の木なので、ひとつひとつ木目の模様が異なります。ぜひご自身の元に届いた一品を模様までお楽しみください。
※本リターンでは寄付領収書の発行は致しません。

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【限定コラボ】名探偵コナン ハンカチ&ミニタオル(布製将棋盤風、現将棋会館イラスト&江戸川コナン)

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※布製将棋盤風ハンカチ(50cm×50cm):広げると将棋盤(約35.5cm×33cm)としてもご利用いただける、「紫色のハンカチ(大判)」です。王将駒を持った89巻中扉絵のコナン君&新一さんを組み合わせたデザインです。
※イラストミニタオル(20cm×20cm):将棋ファンのみなさまとのこれまでの思い出がつまった現将棋会館(外観、4階「特別対局室」、関西将棋会館5階「御上段」の間)のイラストと、80巻表紙絵コナン君がプリントされた「ミニタオル」です。
※本リターンでは寄付領収書の発行は致しません。

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