
プロジェクト本文
パラリンピックの舞台で地上2メートルを跳ぶ!
こんにちは、走り高跳びパラリンピック代表の鈴木徹です。
僕の夢は、パラリンピックに出場し、メダルを獲得する事です。僕が高く高くパラリンピックの舞台で跳ぶことが、義足のアスリートとして義足の可能性を伝え、さらには日本でスポーツをする多くの人にスポーツの魅力を知ってもらう事に繋がると信じています。
今回のプロジェクトの目的
今回のプロジェクトでは「親子スポーツ教室」を開催します。今の子どもたちは外で遊ぶ時間が少なく、また道具がないと遊べない子が増えていると感じます。このイベントを通して遊ぶ楽しさ・工夫する楽しさなどを未来ある子どもたちに伝えていければと思っています。「親子スポーツ教室」では、運動能力をアップするための講義を少しした後に、親子一緒に運動のプログラムを実践していただき、最後にミニゲームを計画しています。皆様から頂いた支援金はイベント当日の会場費や設営費等に使わせて頂きます。
右足を失ったけれど、新たな出会いがあり、走り高跳びを始めました
怪我をして、その先には暗いトンネルが続いていました。
義足での高跳びをはじめてから2000年シドニーで6位、2004年アテネで6位、2006年ジャパンパラリンピックでは世界で2人目の2メートルジャンプを跳び、集大成として臨むはずだった2008年北京パラリンピックだったのですが、その1年前の2007年秋に左ヒザに激痛が走りました。検査してみると「ジャンパーひざ」で靭帯を損傷してしまいました。
痛み止めの服用などにより、痛みに耐え出場した北京では193cmを跳び、結果は5位と過去最高でしたが、メダルには手が届かず、満足感は得らず悔しい思いをしました。
靭帯切断であれば手術も出来たのですが、少し損傷しているだけなので手術も出来ずに、少し休んでは良くなるけど、跳び始めるとまた痛み始めるという状態で、暗いトンネルを彷徨っているような状態でした。
新しい希望、そして再び地上2メートルを跳ぶ。
ヒザの状態が復活しないまま、満足に跳べないで出口のないトンネルを彷徨っていたのですが、昨年1つの希望が射してきました。
「多血小板血漿療法」という先進治療なら自分のこのヒザも直る可能性があるという事がわかったのです。藁にもすがる思いで、その治療を受けてみたところ、治療のたびにヒザが回復していくのを感じました。
そして、10ヶ月ぶりの復帰戦である昨年の12月、IWAS世界大会。結果は1メートル85と決して満足いくものではなかったのですが、約4年ぶりに痛みのない状態で跳ぶことができたのです。
パラリンピックまで時間はないですが、再び2メートル代のジャンプで、今度こそ祈願のメダル獲得を目指したいです。
パラリンピックを間近にして、私は
”日本代表”
ということを強く感じ、そしてそのプレッシャーは感じています。
ただ、そのプレッシャーがアスリートを強くすると感じていますし、これからもたくさんの夢を持つアスリートがそこを目指して欲しいと思っています。
今回プロジェクトに参加した理由は、私が活躍する姿をみていただき、次の選手が世界を目指すきっかけになってもらいたいと思ったからです。資金的にもすべての能力ある選手が世界を目指すことが出来る状況ではないのですが、そのチャンスを此の様な機会を通じて伝えたいと思います。
ぜひ、世界で戦うアスリートの応援をどうぞよろしくお願いします!
上記写真並びに、TOP画 撮影/越智貴雄
プロフィール
鈴木 徹(すずき とおる)陸上選手/ハンドボール部監督(客員講師プーマジャパン株式会社/駿河台大学走り高跳び 2m00=アジア記録、日本記録