英霊眠る海に散骨を・・・妻の願い 近藤豊和
http://www.sankei.com/column/news/150324/clm1503240007-n2.html
 

「この海の景色は…。そうだ、ダーウィンだ」
 

 昨秋、大阪・堺泉北港に「堺まつり」の協賛事業で入港した海上自衛隊護衛艦「はたかぜ」を見学した伊藤理恵さん(48)はそう思った。「はたかぜ」は昨夏、オーストラリア(豪州)北部のダーウィン沖で実施された多国間海上行動訓練に参加した。その際、先の大戦で旧日本軍と豪軍の激烈な戦闘による両国の戦死者を弔う日豪合同慰霊式が行われた。その模様が見学者に梅崎時彦艦長からスライドで説明されていた。

 「祖父が戦死した地でした。ダーウィンは慰霊で以前に訪れたことがあり、不思議なつながりを感じざるをえませんでした」

 伊藤さんの祖父、河原眞治氏は旧海軍航空隊に所属し、昭和18年8月にダーウィン沖のティモール海で偵察飛行中に、豪軍機に撃墜され戦死した。今も海中に眠る。享年24。昭和16年、日米開戦を告げた真珠湾攻撃では空母「赤城」の水平爆撃機隊員として参戦。その後、妻の美代子さんと結婚し、理恵さんの母となる令聿(のりよ)さん(72)が誕生した。結婚生活は1年余り。令聿さんが生後7カ月の時に眞治氏は戦死した。

 「父の記憶は全くありませんが、どのように戦死したのか。思い続けていました」


平成4年、令聿さんのもとに厚生省援護局から突然の通知が届いた。眞治氏の詳細な戦没状況が判明したというのだ。眞治氏の部隊とともに作戦に従事し、撃墜された戦友たちの戦没状況を10年以上にわたって独自に調査した元陸軍大尉、赤坂進氏(故人)の報告によるものだった。

 赤坂氏の調査は、豪政府に残っていた記録を現地の戦史研究家とまとめたものだった。敵機スピットファイアに眞治氏の偵察機が撃墜され洋上に散った経緯が克明に記されていた。何より驚きだったのは、敵機操縦の豪軍中佐の氏名も分かり、機体からのカメラの連続撮影で、眞治氏の偵察機に機銃掃射が命中し、機体が火炎を上げて残骸となる一部始終が数枚の写真で残されていたことだ。

 「これが、父の最期の瞬間…」。令聿さんは写真から目をそらした。涙が止まらなかった。

 同年9月、美代子さんと令聿さんは祈りをささげにダーウィンを訪れた。2人はセスナ機に乗り眞治氏が眠る洋上を何度も旋回飛行し、花束を小窓から差し出すと、勢いよく空中に舞っていった。

 「想像し続けていた風景と、海の色の美しさが全く同じでした。かすかなぬくもりすら知らない父ですが、ここで眠る父に思いをめぐらしました」(令聿さん)

 現地では、撃墜した豪軍元中佐が健在であることが分かり、面会を求めた。元中佐は「気持ちの整理ができない」と断ってきた。

帰国後に次のようにしたためた手紙を元中佐に送った。

 「戦争が悪いのであって、あなたを憎む気持ちはありません。父に代わり、なにとぞ父の分まで長く長く健康で生きてください」

 眞治氏戦死の2カ月後。台湾にいた親元から美代子さんは海路、日本に戻る途中、米潜水艦の魚雷攻撃で船が沈没。赤ん坊の令聿さんを抱き、おなかには第2子がいた。8時間も海を漂い、救助で九死に一生を得た。そして戦中戦後、たくましく生き抜いた。平成16年に84歳で他界。遺言がある。

 「遺骨は、夫が眠るあの海に持っていき、散骨してほしい」

 だが、まだ実現はしていない。「『はたかぜ』であの海の写真を偶然見たときに、祖父が『早くなさい』と言ってきたような気がしたのです。祖母の散骨に母と行くことにします」(理恵さん)

 眞治、美代子夫妻が70年を経て再び結ばれる日がくる。  (こんどう とよかず)


 

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