藝大キャッスル 閉店。85年の歴史に「ありがとう」を届けよう。

NHKの連続テレビ小説「カムカムエヴリバディ」が終了しました。祖母~母~娘の三世代による100年のファミリーヒストリーで、私もほぼ毎朝、欠かさず見ていました。昨年11月に85年の歴史を閉じた東京藝大の学生食堂 キャッスルにも福本ファミリーの祖父~父~娘によるドラマがありました。

初代店主の福本旦(わたる）さんが、東京の丸ビルで経営していた洋食の名店「キャッスル」の常連だった東京音楽学校の先生方からの「西洋音楽を学ぶ学生たちに一流の洋食を食べさせたい！」という熱い想いを受けとめ、昭和11年(1936年)に学生食堂としてスタートしました。当時、東京音楽学校は男女共学でしたが、食堂では男女の席が別々だったそうです。旦さんが丸ビルのお店を中心に、奥様の静枝さんが上野のお店を切り盛りしていたようです。開店5年目の昭和16年には、太平洋戦争に突入、英米は敵国となり、キャッスルという屋号や、洋食メニューなどの英語も憚られる時世になっていった事でしょう。それどころか、戦時下の乏しい食料事情で、次第に主食が米ではなく芋に変わっていったようです。昭和18年から始まった学徒動員により、もはや正常な学校生活は送れないまま音楽学校や美術学校の生徒たちにも多くの戦争犠牲者が出ました。細々と営業は続けていたものの東京大空襲の昭和20年3月10日には、ついに閉店せざるを得なくなりました。それでも終戦のわずか2週間後の8月末には営業を再開されたとか。復員してきた生徒たちを温かく迎え入れました。戦後、ようやく落ち着きを取り戻した昭和24年に東京美術学校、東京音楽学校が東京藝術大学となり、キャッスルも新たな歩みを始めます。道路を隔てた美術学部生が音楽学部側のキャッスルに、そして音楽の学生が美術学部側の大浦食堂にも通うようになりました。

大浦食堂のおふくろの味、バンカラなイメージと、キャッスルの洋食、ハイカラなイメージは、そのまま、美術学部、音楽学部の学生のカラーでもあったのではないでしょうか。現在は美術、音楽ともに学生の7割が女性ですが、もともと東京美術学校が男子校だったこともあり、当時の美術学部には女子学生が極めて少なく、キャッスルに足繁く通う美術学部生のお目当ては、垢抜けした音楽学部の女子学生だったのかもしれません。キャッスルは学部を超えた多くのロマンスの舞台ともなりました。

私が故郷、和歌山から音楽学部に入学したのは、今からほぼ50年前、昭和48年(1973年)の事でした。その頃には、まだ初代の旦おじさんが、食券売場で大きな体を窮屈そうにしておられたのを記憶しています。レモネードにBランチ(ハンバーグ定食)かDランチ(盛合せ）が、学生時代の昼食の定番でした。実技担当の海野義雄先生とレッスンの後、キャッスルに行くと「海野ランチ」という特別なメニューが出され、先生がご馳走してくださるので、お昼直前のレッスン時間を狙っていました。大学院を修了し、4年間の英国留学を終えて昭和59年に母校の新米講師として教えはじめてからも、朝食は、8時30分から営業していた大浦食堂での納豆ごはん、昼食はほとんどキャッスルで、レッスンで小腹が空いたら夕刻には中華そば•••と、キャッスルには1日2度、3度と通うこともありました。

いつしか息子の豊さんの代になり、私が健康上の理由で牛肉や豚肉を避けるようになったり、コーヒー断ちをした時も、豊さんは、少ししゃがれた声で、いつもニコニコとトトロのエプロンで迎えてくれて、メニューにない特別な盛合せや、紅茶とプリンをサービスで付けてくれたりしていました。一時期、オムレツが大人気で、学外の人が殺到したような事もありましたし、イギリスから特別招聘教授で来ていたヴァイオリンの先生は、キャッスルのエビフライが大のお気に入りで、１週間ほどの滞在中、ほとんど毎日、食べていました。豊さんは「センキュー、センキュー」と言いながら、裕子さんにはナイショで、どうもお代も取っていなかったようでした。

豊さんが、大好きなサウナで倒れ、帰らぬ人となられた時は、その前日にもいつもと変わらずニコニコと「先生、どーも！」とお元気そうだっただけに信じられませんでした。 現役の学生や教員のみならず、卒業生や退職後の教職員にとっても、キャッスルは久々に藝大に来たら真っ先に向かうところでした。豊さんが亡くなられた後も、食券売り場に飾られた豊さんの遺影に手を合わせる人が絶えませんでした。

豊さんの急逝にもかかわらず、3代目店主の裕子さんは、持ち前のバイタリティーで気丈に店を切り盛りしていました。私もさすがに60代に差し掛かった頃には、洋食の脂っこさが次第に負担に感じられるようになり、キャッスルから少し遠ざかった時期もありましたが、5~6年前に、厨房に最新鋭の調理器具が導入されると、裕子さんは、新たなメニュー開発に取り組み、カロリーや糖質にも配慮したヘルシーメニューが加わり、お陰で私のキャッスル通いが復活しました。しかしそれも束の間、2020年春先からの新型コロナは、想像を超える試練をキャッスルにもたらしました。もともと、学生食堂の経営は利益が薄い上に、春休み、夏休み、冬休み、またおそらく世界一長いとも思える入試期間など、フルに営業出来ない期間が長く、平常時ですら、同窓会や大学主催のパーティーなどで、ようやく帳尻を合わせていたのが、コロナで、パーティーはもちろんのこと、学外者の利用も禁止となり、さらに国際交流会館の新築工事による食堂スペースの半減などが重なり、遂に85年の歴史に幕を閉じることになってしまいました。キャッスルは学生、卒業生、教職員そしてOB、OGに、世代を超えて藝大でのキャンパスライフの大切なメモリーを遺してくれました。心からのありがとうを言いたいです。「キャッスルありがとうコンサート」の収益とクラウドファンディングで、わずかながらでもその感謝の気持ちを表せれば幸いです。