大聖寺藩・死んだ後、藩主になった10代利行(としみち)

 

不幸にして若い時になくなっている大聖寺藩主が多いことに驚きます。

https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/1f/d8/be5618fee0fda91349306be40f40d62b_s.jpg https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/24/fa/46d4f16db3d14b72207749b8a5637d4e_s.jpg ←実性院にある大聖寺歴代藩主の墓

7代利物(としたね、1760~1788)29歳、8代利孝(としやす、1779~1805)26歳、10代利極(としなか、1812~1838)27歳、11代利平(としひら、1823~1838)25歳、12代利義(としのり、1823~1855)23歳、13代利行(としみち、1835~1855)21歳と、歴代14代の大聖寺藩主のうち、6人もの人が20歳代にして、その生涯を終えているのです。そしてその中の一人、第13代藩主前田利行は、何と亡くなった後で藩主に就いた人です。

利行は1835(天保6)年7月26日に、金沢藩13代藩主・前田斉泰の五男として金沢で生まれました。利行は1855(安政2)年4月20日に兄で大聖寺12代藩主であった利義(斉泰の三男)が23歳の若さで急死したため、その養子として跡を継ぐ準備をしていたのですが、その利行も正式に家督を継ぐ前の5月18日に金沢で病死してしまいます。こちらもまだ21歳の若さででした。

本来、家督を継ぐときには、前もって江戸幕府の将軍(その時の将軍は徳川家定でした)に御目見得しておくのが通例であったため、大聖寺藩も、宗家である金沢藩も改易(お取り潰し)になっては大変と、大慌てします。そこで苦肉の策として、「家督を継ぐ予定の利行が江戸に向かう途中病気になってしまったので、代わりに弟・桃之助(斉泰の七男)が挨拶をします」と言って、御目見得を終わらせます。そして、御目見得が終わった後、「実は、利行が結局病気が悪化して、江戸に行く途中死んでしまいました」と幕府に報告をして、急場をしのぐのです。

江戸幕府はうすうすこの事情を知っていたのでしょうが、大聖寺初代藩主前田利治の母が2代将軍秀忠の娘・珠姫であることや、利行の母(金沢藩13代藩主・前田斉泰の側室)が将軍家定の養女であったことから、特別に跡を継ぐことを許し、利行は正式に13代大聖寺藩主に就くことができたのです。

利行の亡骸はその年の12月16日に金沢を出発します。途中、松任・小松に宿泊しながら、18日には大聖寺藩陣屋前を経由し、実性院に運ばれ、密葬が執り行われました。また本葬が翌年1月28日に執行されています。このようなことから、13代藩主前田利行は、本当は死んでいたのですが、1855(安政2)年7月12日から10月29日までの3ヶ月間、大聖寺藩主を務めたことになっているのです。

14代藩主には、弟桃之助が利行の末期養子として着任し、前田利鬯(としか)を名乗ります。そして、この前田利鬯が大聖寺藩最後の藩主となるのです。(2012年度加賀市観光ボランティア大学第15回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」における江沼地方史研究会・伊林永幸先生のご講演をもとにまとめました。)

新着情報一覧へ