歌が大好きな私と母。

お風呂場が音楽スタジオになっていました。

 

小さい頃から私は歌が大好きでした。ある日、母の着物を着て、口紅をつけ、ちゃぶ台をステージ代わりにして美空ひばり風に歌っていたら母が帰宅、躾に厳しかったので怒られると思ったのですが、目が飛び出そうなくらい驚いた顔をした後、大爆笑しました。

 

それから母とはよく一緒にお風呂で歌いました。朝から晩まで働いた後に私の介護。唯一、母の笑顔が観れる時間でもあったので私はその時間が大好きでした。

 

はじまる偏見。いなくなる友達。

 

私はなんとか公立小学校に入ることが決まったのですが、学校側から「入学を許可できない、他の子に影響があってはいけない。」と連絡がありました。その頃から近所の友達も遊んでくれなくなり、友達の母親から「あなたみたいな子は近づかないで。」と言われ、親戚の人からも「歩けないのなら施設に入れてしまえ。」と言われました。「歩けるようになるかもしれないからもう少し待ってほしい」。そういって親戚に頭を下げ続ける母。辛いのは私だけじゃない、お母さんも一緒でした。

 

手術失敗。

九歳の私は完全に歩けなくなりました。

 

小学三年生の時、左右の足の長さを整えるための手術を行ないました。「これで歩けるようになる。」私と母は期待に心踊らせていました。しかし、手術は失敗。手すりがあれば、歩けたのですが、その日から完全に歩けなくなりました。「返して!私の足を返してよ!」泣きながら先生に何度も言いました。「ごめんね。本当にごめんね。」返ってくるのはその言葉だけ。そうして私の車椅子生活は始まったのです。

 

壮絶な高校時代。レイプ未遂事件。

 

入学当初からF君という男の子に劣悪ないじめを受けました。なんとか耐え続けていたのですが、いじめはエスカレートし、最悪な事件は訪れました。それはある日のこと、体育館で授業だと知らされていたので、一人で向かったところ、いきなりF君のグループに囲まれました。

 

車椅子ごと振り回され、服を切り裂かれ、レイプされそうになったのです。寸前のところで先生が助けてくれたのですが、あまりのショックで初めていじめで泣きました。そして母にもう学校やめると話しました。しかし。「それでも行くしかないんだ。戦うしかないんだ。」そう私に言いました。「私なんかどうなってもいいんだ、だったら本当に死ぬ気で戦ってやろう。」私は決心しました。

 

友人の死。

彼の意思を今も引き継いでいます。

 

私は生きていくためにあえてF君と仲良くなることを決めました。いじめられても少しずつ声をかけ続けたのです。その効果があってか、私が音楽が好きだと知り、彼は少しずつ優しくなっていきました。

 

その後私は、高校の謝恩会で車椅子ダンスを披露することになりました。何度も練習を重ね、3人組グループを結成し、多くの人の前で披露しました。

 

こんなにも一生懸命何かに取り組んだことはなかったので、達成感に満ち溢れていたのですが、特に嬉しかったのはF君くんからの祝福。「お前はすごい!感動した!」と心の底から祝ってくれている顔は今でも忘れられません。

 

5人組のバンドグループにも入っていたF君。大勢の前で歌う姿はプロにも劣らないクオリティでお世辞抜きで「かっこいい!」と思いました。

 

そんな彼の病気は筋ジストロフィー。同じく歌手を目指していた彼は、年月とともに筋肉が衰え歌えなくなってしまう病気です。卒業後も彼とは頻繁に連絡を取っていました。「いつかCD出したら買うから!頑張れよ!」そう言って私のことを応援してくれた彼は2009年に亡くなりました。そんな彼のためにも頑張ろうと思えています。

 

左の車椅子の青年が、かけがえのない友達、F君です。

 

高校卒業間近に母親の胃がんが発覚。

 

働き続けの母は精神的にも身体的にも限界が来ていました。手術代も薬代も払う余裕なんてない。昔、病院の先生に「お母さんを休ませるためにも施設に入って見たら。」と言われたのですが、私はそれが嫌で断り続けました。もしあの時私がわがままを言わずに施設に入っていたら、きっとお母さんは病気にならずに済んだかもしれません。

 

その後、なんとか周りの方の協力もあり手術をすることができたのですが、そこからお母さんの調子は良くなりませんでした。

 

初めての一目惚れ。

彼に会えるのが楽しみで仕方がありませんでした。

 

それから私は地元の国立大学に推薦で行けることになったのですが、通学には介護が必要で、そうなるとお母さんに見てもらわないといけなくなり、生活費稼げなくなります。そのため私は進学を諦め、デイサービスに通うことになりました。

 

がしかし、そこは私以外のほとんどがお年寄り。正直行きたくありませんでした。

 

ですが、その施設で運命的な出会いがあったのです。それはある日のこと、桜の前で写真を撮ってもらおうとした時、知らない人から後ろから肩を抱きしめられました。私は突然の出来事に悲鳴をあげてしまいました。するとその人は「僕も写真が好きだから一緒に写っていいかな。」と無邪気な笑顔で話しかけてきました。職員の齋藤です。

 

素敵で明るい笑顔。「こんな人になれたら…。」、憧れの気持ちとともに心の中の桜が咲いたような気持ちになりました。そんな私は齋藤さんに会えるのが楽しみで仕方がありませんでした。彼女がいることを知りながらも…。

 

 

自殺を考える日々。

「死にたきゃ死ね!おまえが死んでも誰も困らん!でも…!」

 

そんな話とは裏腹に親戚の人からのいじめは後を絶ちませんでした。「あんたのせいでお母さんの人生めちゃくちゃだ。呑気に生きてるんじゃないよ。」私はショックで眠れない日があると自殺を考えるようになりました。「もう楽になりたい。」そう思う日が増え、日中、ボーとしてしまうことが多くなりました。

 

するとある日齋藤さんが「どげんしたとか?」と私の様子に気づき、話しかけてくれました。「死にたい、もう嫌だ苦しくて苦しくて仕方ないもう死にたい。」初めて人前でに弱音を吐きました。すると齋藤さんは

 

「死にたきゃ死ね!ただ悔しくねぇっとか!おまえが死んでも誰も困らん!ただお前のことなんかみんな一年も経てば、忘れるだけだ!それん、お前の死は喜ばれるだけだぞ。それでお前は本当に悔しくねぇっとか!見返してやろうと思わんっとか!それでもよければ止めない、死ね!」

 

すべてから逃げようとしていた自分から悔しさがこみ上げました。

 

「悔しい、わたし悔しい!忘れられたくない!」

 

「そしたら生きりゃいい!ばかにしちょうやつらに、お前の強さ見せてやれ!お前ならできる頑張れ!泣きたくなったらいつでも話せ!いつでも相談にのるから。」

 

生きてやる、見返してやる、生きてお母さんが誇れる娘になってやる!その日から私は絶対に強くいき続けるんだと決心することができました。

 

母の死と約束。

 

21歳の春から母の知り合いの紹介でパソコンを使った職に就きました。働いてお金を手にする大変さを知り、母親の偉大さを実感しました。

 

しかし、私が働きに出てからすぐに母のがんが再発。胃がんが全身に転移していたのです。母は我を失い。「あんたがおって、お金も治療の時間もねかったかいこんなことになったとよ。あんたのせいで死なんといかんがよ!返せ!わたしの人生返せ!」

 

何も言い返すことができませんでした。「お母さんごめんなさい本当にごめんなさい」ただただ心の中でと叫び続けることしかできませんでした。

 

私のせいで母はすぐに入院することもできませんでした。やっとの思いで見つけた施設に私を預け、入院したのは再発が発覚してから数日後。その後、病院にいる母から電話がありました。「会いたいけどいけなくなっちゃった。ごめんね。よくなったら帰るから。」

 

弱々しい声で話しかける母。

 

私は母に会いに行きました。するとそこには何本もの点滴がぶら下がり皮と骨だけしかないような姿になった母がいました。それでもわたしを元気付けるために笑わせようとする母。

 

もう次は会えない。そう感じました。

 

「お母さん、私歌がやりたい。そしてお母さんの夢だった紅白に出る。約束だよ。」

 

母はまっすぐ私の目を見て「応援してるから頑張るとよ。あんたが紅白で歌う日を楽しみにしとるからね。」

 

そう笑顔で答えました。

 

そして2003年9月11日に母は死にました。

たった一人の家族を失った私はその日から天涯孤独になったのです。

 

「 東京に来ない?」はじまる第二の人生。

 

母が死んでから私は親戚の人にもっと安い施設に移れと言われ、他の施設に通うことになりました。しかしそこの施設は性的虐待であふれた地獄の施設でした。朝一のオムツ交換で必要以上に色んな子の局部を触る職員。直接被害にあわなかったものの、私はその現状に耐えることができず、毎日役所に電話とメールを続け、半年後に元の施設に戻りました。

 

その後、友だちのTさんから「東京に遊びに来ない?」と連絡が来ました。

 

私がなぜかその誘いが特別なものに感じ、すぐに行くことを決めました。そして東京の多摩のマンションの「M」と書かれた一室に招待されました。そこには数人の障がい者。すると突然、ある女性が「あなたは自立する気はありますか?」と聞いてきました。その方も脳性まひで車椅子の方です。

 

今まで考えたことなかった自立という言葉に戸惑いを隠せませんでした。しかし、そのあとの彼女のお話や考え方に感動し、私は宮崎を巣立つことを決め、東京に住むことにしました。

 

こうして私の東京での一人暮らしが始まったのです。

 

まるでサバイバル。

介護者を探す日々が始まりました。

 

東京生活の初日、私はMのスタッフに小田急線永山駅前で「家まで連れて帰って、そのあと泊まり介護をしてくれる人を探しなさい。」とだけ言われ、置いていかれました。

 

まるでサバイバルのような時間が始まったのです。

 

私は戸惑いながらも、とにかくすれ違う人に声をかけ続けました。目があっても無視する人、笑う人、心ない言葉をかけてくる人、始めて10分も経たないうちにとてつもない不安に襲われました。

 

トイレに行きたくてもいけない…。

このまま夜まで誰も見つからなかったら…。

 

不安に押しつぶされそうな中、女性の方が足を止めてくれました。そして私をトイレまで連れていってくれたのですが、その方は介護をしたことがないので、できるだけわかりやすく介護の仕方をお話しさせていただき、ようやくトイレをすることが出来ました。

 

トイレの介護がこれほどありがたいことがと私はわかっていませんでした。改めて母の偉大さに涙が溢れました。しかしそのあと夜10時まで誰も止まってくれませんでした。もうだめだ、そう諦めかけた時に改札から4人組のOLの方が出てきました、私はわらにもすがる思いで必死に話しかけました。

 

案の定、戸惑っていたのですが、最終的に明日は仕事がある関係で泊まることはできないが、家まで送ってもらい着替えさせてもらい、ベットに寝かせてもらうことができました。お風呂も夕飯も抜きでしたが、彼女たちがいなければ暖かい布団で寝ることはできなかったので、本当に心から感謝しています。これが生きることなんだと実感しました。

 

 

歌手活動の始まり。

 

そんな生活を半年間続け、私は300人の「ボランティア名簿」というものが出来上がっていました。「今日は無理だけど明日なら。」という方や、その日に手伝ってくれた方々の連絡先などを控えさせていただき、毎日シフトを組んで介護をお願いする生活を送ることができるようになったのです。

 

そして本当に多くの方のサポートもあり、

歌うための舞台が整い、最初の一歩として路上ライブを始めました。

 

「姉ちゃん、日本一下手や、日本一下手な歌手やわ!」

 

路上ライブを始めたはいいものの、全く立ち止まってくれません。そんな中ある男性が「姉ちゃんほんっとうた下手やな。俺の方がうまいんちゃうか!?」そう話しかけてきました。

 

その男性は続けて「姉ちゃん、日本一下手や、日本一下手な歌手やわ!」といってきたのですが、私の歌を最後まで聞いてくれている、そして楽しそうにしてくれている。私の気持ちは高揚しました。

 

それからその男性を筆頭に15人もの人が集まり、

とても達成感のある路上ライブをすることができました。

 

人生初の単独ライブ。

「あなたのおかげで勇気が出た。」

 

路上ライブを始めてから半年間で18万円ものカンパが集まりました。私はそのお金で会場を借りて人生初の単独ライブをすることを決めました。

 

今まで介護をしてくれた方や、路上ライブで出会った方、合計300人の方が集まり、母の命日、2008年9月11日に一歩夢に近づくことができました。

 

なんで生まれてきたのと言われ続けた私が「あなたのおかげで勇気が出た。」そう言われるまでになれたんです。

 

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