2016年12月に倉敷の病院に危口さんのお見舞いに出かけたとき、 

作品をつくる考えがあると話す彼に、どんな芝居をつくりたいのかと聞いたら、 

一筋縄ではない彼の語り口は健在で、「そもそも僕は演劇の作家なのかまだわからないんですよ、正直なところ」と前置きを加えながら、 

病院で上演するアイデアがあると話していた。 

 

つぎに危口さんに会えたのは2017年2月KAAT神奈川芸術劇場で、アピチャッポン・ウィーラセータクン『Fever room』の会場から車椅子で出てきた彼は、うきうきしてるような表情をして手を振ってくれた。これが最後の観劇になった彼はこの時かなり強い痛み止めを飲んでいたとのことだったが、舞台への関心も健在であった。 

 

危口さんといえば、端的に言ってしまうとああいえばこういう一筋縄ではない会話と、人並み以上の観劇量と読書量が支えるへりくつものである一方で、絵画や彫刻、建築、演劇・文学、音楽、ゲーム、漫画などハイカルチャーからサブカルチャーまで人並み以上に広く深い関心、探究心や遊び心をもつ、真面目でお茶目な作家であった。 

危口さんの創作では、直接的な表現は避け、ある関心の対象を一重にも三重にもほかの事象に置き換えて重層的に構築する手法をとっていた。 

そうした思考で完成した代表作が、演劇の上演を成り立たせる要素・構造を自ら従事する荷揚げ屋に置き換え労働の実態を追体験させ、その虚しさと可笑しみをもったドキュメント・ドラマとして提示した「搬入プロジェクト」であったし、『桜の園』や『喫煙の害について』、『注文の多い料理店』など近代の名作を題材にするのを好んだのも、その手法を実践するにぴったりだったからではないだろうか。 

建築を学んだ演劇作家というバックグラウンドが、そんな彼の手法を助けたのかもしれない。彼は、執筆や演出のみならず、舞台美術や役者としても作品に参加していたが、そこでも何重もの解釈の可能性や脱構築を試みていた。 

ひとつの作品が出来上がるまで、彼はどれだけの思考実験を繰り返していたのだろう。 

彼の分析的・批評的に鋭い視点は面白い反面、いつも自分自身を苦しめていたことも言うまでもなく、作品のすがたを決める判断を出しあぐねる姿勢は、人一倍歯がゆさを感じさせるのであった。 

 

彼のことはアーティストとしてだけではなく、観客としても信頼していた。足繁く日々劇場に通う彼の感想・指摘はいつも気になったし、わたしの会社でプロデュースしている劇団、チェルフィッチュの旗揚げ公演を観ている数少ない友人であり(わたしは観ていない)、現代演劇の証人として彼は業界の大きな財産であった。 

 

そんな彼である。 

彼のうんちくとパフォーマンスにもう立ち会えないおもうと悲しみがとまらない。けれども創造のバトンをつないでいけることは望みである。創作のネタやスケッチ、脚本をアーカイブすることは、これまで上演ではみられなかった彼の創造力を体験できることになるし、そのいく通りもの思考実験を知ることにより現在活躍するアーティストや将来のアーティストを刺激するものになるだろう。パフォーマンスというものは生き物で、時が過ぎれば、人と同じく作品も成長し熟成される。危口さんの作品群とそのネタ帳に記されたアイデアは、書籍や搬入のガイドラインとして命が吹き込まれることによって別のかたちで蘇り、新たな価値を生む。アーカイビングは偉大な作業だ。倉敷の危口さんの部屋満杯に遺されたたくさんのダンボールの山を紐解き、情報を収集し編集し危口さんの創作のエッセンスをかたちにするには様々な能力や支援が必要になるだろう。多くの方々の協力を得られ実現できることを切に願う。 

 

わたしはこのプロジェクトによって危口さんの知的世界への道が開かれることに賛同し期待しています。ご支援よろしくお願いいたします。 

 

 

 

中村茜(プリコグ代表・プロデューサー)

 

 

 

 

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