危口統之の人格と切り離された作品を感じたい

 

 危口さんと僕との出会いは、2009年くらいだったでしょうか。当時、twitterなどのSNSが浸透し始めた頃で、twitter上で行ったヘヴィーメタルミュージックに関するやり取りが切っ掛けで知り合いました。その後メタル放送大学というインターネット中継の企画に誘ったり、百人斬りの音楽隊に参加させてもらったりして楽しい時間を過ごしたりしました。当時活躍していた彼以外の舞台芸術関係のアーティスト達との出会いも思えばこの辺りだったと思いだします。

 彼の繰り広げる活動の中で大いに刺激を受けたのは、彼と仲間達(このクラウドファウンディングの発起人でもある石川卓磨さんをはじめとする)が舞台装置等を作り上げる際に立ち上がるクラフトマンシップ溢れる豊穣な時間でした。この仲間達には本職の大工も含まれていたり、建築というバックグラウンドがあったり、つまり基本ができているから、素晴らしいクラフトマンシップ(その背景には、さらに彼ら特有のフレンドシップもある)を発揮できていたのだろうと思いますが、僕はそれを見て何を勘違いしたのか、「自分もやればできるのかも」と考えてしまい、僕自身殆ど手を出してこなったDIYの世界に足を踏み入れ、ゾンビ音楽と呼んでいる自作の自動演奏音楽等、今に繋がる活動を初めました。

 

 なのですが、こと演出家・危口統之の演出する舞台作品になると僕はその良き理解者では全くなかったと思っています。(悪魔のしるしwebサイトでいうところのパフォーマンス作品である百人斬りや搬入プロジェクトは理解できた)それは彼の作品が理解できなかった作品なのではなく、僕に理解する能力が無かったのではないかと今は思っています。思えば危口作品を通して僕はそんな視点を芸術作品に対して持つことを学んだようにも思います。

 

 僕が、危口作品をジャッジし世界の人にオススメしていく立場にあるとは思えませんが、あくまでも自分への投資という形で、危口作品を勉強するためにこのプロジェクトに賛同し支援します。

 

 彼が書き残したテキスト、スケッチなどに散りばめられたイデアの星々を眺めるだけでおそらく十分満足できるアーカイブになるとは思いますが、願わくば危口統之の人格と切り離された作品※1に出会えんことを、現代においてそんなことが可能なのか、ましてや危口作品においてそれが可能なのか、またそれにどれだけの価値※2があるのかを含めて楽しみにしています。さらに、そのアーカイブを解釈することによって滲み出るだろう、誰とも共有する必要のない僕だけの何かに出会えることを願っています。

 

安野太郎(作曲家・ゾンビ音楽)

 

 

 

※1 “作家の人格と作品は別なのか?”という問題は、よく犯罪を犯した作家の作品などを語る時に引き合いに出されがちですが、ここではそういう意味で書いていません。いちいち注釈をつけなくてもわかるとは思いますが、どのように解釈されるかわからないので一応注釈入れておきます。

 

※2 僕自身はその価値を信じています。むしろそこにしか価値が無いと言ってもいいほどに。

 

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