危口さんに会ったことがあるのは、数えるほどだ。だけど、この世にこういう人がいると思うだけで、なにか心休まるような人だった。ものすごくたくさん本を読んでいて博学だし、とても賢いけれど、決して上から物を言ったりしない。照れ隠しの自虐も混じりつつ、かっこ悪さもそのままで、愛すべき人間味と凛とした孤高さがあった。今の時代あまりいない、ちょっと古風なところのある人だった。 
 そんな危口さんに、2018年の1月20日から豊田市美術館で始まる、「ビルディング・ロマンス」展の参加をお願いした。この展覧会は、現代の美術から切り離された“物語”や“ロマン”を再び美術に結びつけることで、観客と展覧会の新たな結びつきを模索しようとするものだ。20世紀以降の芸術が、純粋に芸術のみを目指すようになり、その分生と切り離された非人間的な様式性に向かうようになったことへの、逆の流れとして想定している。この“ビルディング・ロマンス”という言葉は、19世紀ヨーロッパの“成長譚”(ビルドゥングス・ロマン)から来た造語で、しばしば他の文脈でも使われることがあるけれど、もちろん啓蒙主義を再び取り上げようというのではない。結局、国家とか民族とか大き過ぎるものに向かってしまった19世紀の“ロマン”ではなく、家族や恋人、土地などの身近なものとの関わりの中から、現代の新たな“ロマン”を探ろうとするものである。もともと、日常と非日常とか、虚構と現実を分けるのに、ちょっとした違和感があった。自分たちが生きている世界こそ、大なり小なりの物語の宝庫だと思っていた。演劇やパフォーマンスを軸にした活動にも、建築、文学、美術に対する深い理解が見え隠れする危口さんなら、きっと予想も付かないような妙でおもしろいことをしてくれるに違いない。なにより、戯曲でもTwitterでも、危口さんの紡ぐ言葉がとても好きだった。「ビルディング(建物)」と「ロマン(小説)」の組み合わせは、危口さんにぴったりだと思った。危口さんに参加をお願いしたのは、演劇と美術というジャンルの横断に面白味を感じてのことではない。危口さん自体が、演劇、建築、文学、美術の交差するところに、それぞれの原理を深く捉えたうえで、自然にいるという印象があった。いつもアイデアや周りのものをスケッチに描き留め、あの“ジャコメッティ”な父を持つ危口さんは、これからの活動の視野に、展覧会への参加や美術作品の制作もあったに違いない。 

 


 2017年の9月半ばごろに、危口さんが「杉戸洋-こっぱとあまつぶ」を観に、ふらっと立ち寄ってくれた。“悪魔”の危口さんが、“天使”の杉戸さんの絵を気に入るだろうかと思っていたけど、杉戸さんが展示の拠り所にしていたことを、危口さんがさらりと言ったので驚いた。絵解きになってしまうので、敢えてどこにも書いていないことだった。会期中そのことに触れたのは、二人である。画家の父を持ち、絵画に囲まれて育った危口さんは、やっぱり絵画に対する造詣も深い。その時、「これからなにかやれたらいいですね」、という話をした。この展覧会のことが念頭にあったけど、予算前の不確定な時期だったので、明確なことがいえなかった。それから、11月末に危口さんの癌のことを知り、しばらくおろおろして、ようやく12月半ばになってからメールを送った。「あの時ちらっと話していたのはこの展覧会のことだったんです」と企画書を送り、「身体が良くなったら、また一緒になにかやりましょう」と書いた。そしたらすぐ、「ぜひ参加したい」と返事を貰った。ルーズだといわれている危口さんだけど、作品を作ることに対する真摯な情熱が、正直とても嬉しかった。しかしその後、恐ろしいほどの速さで病状が進んでいき、それから本当にあっという間だった。あんな稀有な人がもう同じ世界に存在していないことは、本当にしみじみ寂しい。
 危口さんとひとつ、取り決めていたことがあった。危口さんから、自分はやりたいばかりだが、身体がどうなるかわからないので迷惑を掛けるかもしれない、覚悟しておいて欲しいとメールが来た。1月だった。では、6月までにプランが決まっていたら、そのまま継続して参加してもらうのはどうかと提案した。すると、「乗った」との返事。その二ヶ月後に、それがどんなに呑気な提案だったかを思い知らされた。刻々と悪化する危口さんの病状に寄り添っていたご家族や友人が知ったら、きっと無謀に映っただろう。結局、プランを決定することは叶わなかった。だから、その時展覧会への参加は諦めるべきだったのかもしれない。けれど決心できないまま、「悪魔のしるし」のメンバーとも時折連絡を取りつつ、ずるずると時が過ぎていった。しかし、危口さんから自分がいなくなっても続けて欲しいといわれていたわけではなかった。その固執は、自分の勝手な思いでしかなかった。危口さん自体が、「記憶や感情とはまったく別の次元に作品というのは存在する。というか、そうでなければ懸命に作品を作ったり、日々そのことについて狂おしく考えている芸術家たちは救われない」と、語っているではないか(同じReadyforの本田祐也さんへのメッセージ)。危口さんがいないまま、危口さんしか持ち得なかったものに触れられるかどうか、とても自信がなかった。そのことを、高円寺で搬入プロジェクトがあった夜、「悪魔のしるし」のメンバーに伝えようとした時、彼らから返ってきたのは、むしろやろうという意志だった。それは感情的なものではなく、淡々と強いものだった。それで、今や「悪魔の生き残り」と自称するメンバーと、危口さんという表現者がいたこと、そしてその作品を、展覧会というフレームの中で伝え、残していくことに決めた。改めて、「危口統之と悪魔のしるし」という名で展覧会に参加してもらうことになった。 
 危口さんが亡くなってから一週間後、危口さんの生まれ育った地であり、亡くなるまで療養していた倉敷で、危口統之原案、「悪魔のしるし」による公演、『蟹と歩く』を観た。終盤、「悪魔くん」のメロディーが流れる中、秘儀を経て、「俺、俺」といいながら危口さんが復活した。復活したことになるのが、演劇の決まりだ。なのに私は、そのルールを脇に置いて、「あれは危口さんではない」と思い続けていた。当たり前といえば、当たり前のことだけれど。それよりむしろ中盤で、オジー(・オズボーン)が英語で絶叫する、その吹っ切ったばかばかしいパフォーマンスで、その「雨ニモマケズ」の言葉の中に、危口さんの一部を見たような気がした。80年近く前に逝去した、小説家であり詩人の存在に重なるように。逝ってしまった危口さんを、蘇らせることはできるだろうか。それは、やっぱり不可能だ。それでも芸術には本当に、その人を「蘇らせる」力があると信じている。残された作品の、その本質に触れることによって。だから、危口統之の作品をアーカイブすることは、絶対に重要だ。 

 

能勢陽子(豊田市美術館学芸員)

 

 

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