僕は人生で3年間だけ車の運転免許証を持っていたことがある。僕が車を運転していたときの一番の良い思い出は、男だらけの8人で旅した建築ツアーだ。横浜から出て、名古屋、京都、岡山、香川、徳島、高知、兵庫、大阪、名古屋、長野と延々と車で建築を巡った。そのメンバーの一人がきぐちさんだった。その旅の最大のクライマックスはきぐちさんの実家に滞在したことだ。きぐちさんのお祖母さんが所用があるというので、四国の志度まで皆で送り届けたら、なんと我々全員分の下駄を仕立ててくれた。お祖母さんの心遣いにも感動したし、下駄を職人がつくってくれたというのも本当にうれしくて、僕にとって、それ以来、下駄は勇者のしるしのようなものになり、設計事務所に入って先輩から下駄がうるさいと禁止されるまでも夏も冬もひたすら下駄をはいていた。一緒に旅したメンバーも、最初は皆大学で下駄をはいていたのだったが、一人減り二人減り、最後まで下駄をはいていたのは、結局きぐちさんと僕だった。 
 
僕がきぐちさんに最初に大学で会ったとき、きぐちさんはすでに劇をつくる人だった。友人に連れられて偶然みたきぐちさんが演出した演劇は、抱腹絶倒のコメディ活劇でタランティーノと週刊少年ジャンプとダウンタウンが融合したみたいなものだった。センスの塊みたいな人だなと思った。きぐちさんが演劇を選んだのは偶然らしいけど、どうあっても演劇はきぐちさんの才能を放っておかなかったに違いない。きぐちさんはおそらく計画的に留年し、僕の同級生のシオミと後輩のタクマとシェアして住み始めたので、年越しはしばしば彼らの家に集まって麻雀をした。きぐちさんとくだらない話をしつつ麻雀をするのは楽しかった。きぐちさんは麻雀をして絵を描いていたりと一向に建築をつくっていた記憶はないのだが、大学祭の度に演劇だったりバンド演奏だったりパフォーマンスだったりを披露する、大学最大のテンターテナーだった。 
 
そうしたきぐちさんの大学時代の天才っぷりを金森さんに自慢することで、金森さんがうらやましがり、それがきぐちさんを僕らで散々挑発し、焚き付けたことがきっかけとなり、悪魔のしるしという運動体が生まれたのは、本当に良かったと思うし、僕がきぐちさんから受けとった創造の火種を返すことができたとほっとしている。 
 
僕は自分が建築家になるなんて全く想像もしていなかったので、今自分が建築家であることを名乗っていることにときどき驚くのだが、自分自身で、建築家を目指したきっかけを振り返ると、きぐちさんに出会えたことが結構大きいような気がしている。きぐちさんは、いつでも何の目的もなくただ何かを創造すること、創造されたことを味わうことを無根拠に楽しんでいて、クリエーションへの愛に溢れた人だった。人はちょっとした創造性との出会いによって、一生という時間火を燃やし続けることができる。 
建築をつくるというのはいつも発注者がいるのだけど、建築家になるというのことは発注者や与件の有無に関わらず創造を無根拠に楽しむことができるかどうかが重要で、建築家になろうと考える前に、きぐちさんたちと過ごした大学時代の純粋で無駄な創造の時間は、今となっては僕の中の巨大な故郷の海になっている。きぐちさんと僕は、創造者としての故郷を共有しているのだと思う。 
 
僕は、きぐちさんが何者かという答えに対して、きぐちさんは建築家である。というような答えがまず浮かんでくる。理由は彼が建築学科出身だからというわけではなくて、もっと実質的なもので知り合ってから20年以上ずっときぐちさんと建築のディープな議論をしてきたのだけど、結局のところなんでも話が通じるのは、隈さんとか立衛さんとかきぐちさんだけだった。他の演劇人にはほとんどの議論が伝わらないのだから、もう僕はきぐちさんは間違いなく建築家だろうと思う。 
 
きぐちさんは演劇という表現を通じて、建築とは何かということを考え続けた。きぐちさんについて考え続けること、それは自分自身につながっている、建築につながっている重要な問題に思える。そしてそう思っている人は、僕以外にもかなり多くいるのではないかと思う。きぐちさんが考えたことを考えることで建築論を召喚してみたい。そんな邪な想いと共にこのプロジェクトを応援してみようと思います。建築界の共感が多数集まることを希望します。 
 
きぐちさん、こんなんで良いでしょうか。

 

藤原徹平(建築家)

 

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