運営メンバーの梅原です。ウェズリアン大学で哲学を専攻しています。以下の文章は、今回の授業の中心になっているムーブメント・ワークショップというものを去年の夏に受けたときの感想(日記?)です。なかなか一言では説明できないこの魅力が伝わればうれしいです。

 

 

私は先週の日曜日、都内某所のダンススタジオの床に寝転がり、無意味に動いていた。このワークショップに参加するのは三度目だが、いつやっても新鮮だ。やることはただ一つ。無駄な動きをする。実はこれがひどく難しい。

 

  一つ一つの動きに目的があってはいけない。立とうとして床に手を着くとき、その動きはすでに「立つための準備」という意味を持っている。つまり、「大きな動きのための小さな動き」が既に有意味なのである。つまり、一つ一つの行為に連関があってはならない。時間を細かく刻み、その中で漸次的に――微分的に――動いていくことしか許されない。長期プランを立ててはいけない。 

 

 未来を見すえて意味を与えるのも駄目なら、未来の方から見て意味がある行動をとるのもよくない。言い換えれば自分目線と他人目線ということになるだろうか。要するに「解釈」されうる動きが全てだめなのである。だから、象徴的だったり記号的な動き――ジェスチャーなどが含まれる――を全て排斥する。他人が見て、何か「表現」を感じ取ってはいけない。だが、そんなことは実際には不可能だ。自分がどれだけ配慮しようとも、他人の解釈を完全にコントロールすることは出来ない。今私の左手の薬指が少しだけ曲がったことも、きっと誰かに「意味のある行為」だとしてとらえられるのだろう。

 

  そう考えると、「無意味な動きをする」というのは目指すべき厳密なゴール、というよりかは持つべき意識の話となってくる。ところが、「無意味であろう、無意味であろう」と考えてしまうとこんどは無意味であることが目的になってしまう。不思議なものだ。

 

  つまり、頭を使って「無意味な動き」をとろうとすること自体が間違っている。理性を少しはずして、感性に耳をすませつつ体を動かす。体全体で調和した運動をすると、即座にまた意味が発生するから、ちぐはぐな動きになるよう配慮する。体全体が気持ちがよい方向に動く、というよりかは体の各部位がやりたがっていることを各々やらせる、というイメージである。体のすべてのパーツに意識を与える。

 

  「今、自分の手首は右の上の方に行きたがっている」といった意識を体全体で汲み上げるられれば、なんということもない。体の各部位がわがままであれば、その動きに意味はないのだ。動きがすべての瞬間において自己目的化されていればよいのである。抽象的になりがちなこういった思索も、ダンス・ワークショップという文脈にのることで具体的になり、誰にでもわかるようになる。なんといっても自分の身体は自分でコントロールし、意識でき、実験に使えるのである。歩けなくても、眼が見えなくても、脚がなくても、全ての人間には身体があり、それは何がしかの動きができる。呼吸も瞬きもれっきとした動きである。

 

  動こうとすることも既に動きだ。この日我々が学んだのは、身体の可動法ではなく、それに対する想像、という広義の「動き」だった。身体の各部に意識を与え、それに動きを任せる姿勢そのものが求められていた。この学びはダンススタジオのなかにとどまらず、日々の生活の中に生きうると感じた。

 

  参加者は年齢も職も性別もバラバラな二五人。多様性が故に終了後の雑談も面白く、時間にして三時間という比較的小規模なワークショップだったが、実に有意味だった。