السلام عليكم

نبيل كيف الصحة

هل تذكر أستاذ أحمد من الفارات؟؟؟

 

と、Facebookで連絡が来ました。

 

アッサラームアライクム!

ナビール(僕のアラビア語名)、元気にしてるかな?

アルファラット村で先生をしていたアフマドだよ。覚えてるかい?

 

 

と。

 

 

僕のシリアの故郷であるアルファラット村。

 

 

 

 

アルファラット村は、僕がシリアで活動していた場所で、僕のシリアの家族が住んでいる村です。

 

その村での活動をたくさん手伝ってもらったり、シリアの習慣や文化をたくさん教えてくれた人がアフマド先生でした。

 

 

 

彼の家族が無事で、家族みんなでシリアの治安が良い地域に住んでいることを知れました。

小さかった彼の子どもも、すっかり大きくなって、ビデオ通話をして元気な姿を見ることができました。

 

 

 

この子たちもすっかりと大きくなっていました!

 

 

 

そして、僕のシリアの家族は、アフマド先生の親戚です。

 

「シリアで出会った少女の夢の続きを、僕らで叶えたい」という、きっかけをくれた少女は、その家族の三女なのです。

 

彼らについて、途切れ途切れの通話で話を聞くと、

「長女は結婚して子どももいるよ。

次女は病院で働いてる。長男はレバノンだよ」

 

そして、三女ブトゥーレのことを聞くと、

「今は、バッカーローリエ(受験生)だよ。両親と一緒にマンベジに住んでる」

ということが分かりました。

 

 

僕がかつて住んでいたマンベジは、1ヶ月ほど前まで、ISに占拠され、検索すると、悲惨なニュースとともに、処刑場や、ISカラーである黒に塗られた建物が出てきた街となっていました。

 

また、トルコでマンベジ出身の人から話を聞くと、「ISは市民を人質にしている」(市民がいることで、空爆されないようにするため)というような話も聞くほどでした(現在は解放されました)。

 

 

なので、彼らの安否がすごく気になり続けていたので、本当に嬉しく、

メールが来た時は泣きそうで、

そのあと1時間ほどアラビア語で話したのですが、その間はずっと目がないほど笑っていました。

 

誕生日を祝う習慣がないシリアの村の人たち。なのに、僕の誕生を特別にお祝いしてくれた

 

 

 

 

 

どうして連絡を取り合ってなかったかというと。

 

僕が住んでいた当時は、スマホがまだなかった頃。

 

それもあり、メールではなく、携帯かショートメッセージで連絡を取り合っていました。

 

Facebookを使う人たちもおらず(日本でもまだ普及してない頃で、僕も使ってませんでした。ちなみに、Facebookがシリアで解禁されたのも、2011年と言われています)。

 

そもそも、連絡なしで急に行っても、おうちに泊めてもらう関係でしたし。

 

 

携帯電話はJICAからの借り物で、帰国のときに返却し、僕は仕事ですぐにシリアに帰ってくる予定があったので、また直接遊びに行くから良いや、と唯一の連絡手段である携帯電話の電話番号も控えていませんでした。

(この後、予定していたシリアでの仕事がなくなる)

 

 

僕の住んでいたマンベジ市(小さめの町)の携帯ショップ

 

 

 

そして何より。

 

シリアがこのような事態になるなんてことを想像できた人は、誰もいなかったように思います。それほど安定していましたし、「アラブの春」を対岸の火事だと見ていたのは、シリアの人たちにとっても同様だったと思います。

 

また騒乱が起こったあとも、1ヶ月もしないで収まるだろう、と思っていました。

 

まさか、5年も続き、「シリアで起こっているのは世界大戦だ」と、シリア人が表現するような複雑な事態になるなんて…。未だに信じられません。

 

 

と、言う色んな条件が重なった結果、

僕はシリアの家族の人たちと連絡を取れていなかったのです。

 

 

 

ともあれ。

こうして、大切な家族と友人の無事が分かり、どこに住んでいるかが分かりました。

 

この奇跡も、このプロジェクトをやり始めた結果のような気がしています。

 

 

 

 

 

本当に多くの方がシェアをしてくださっているお陰で、

普通はほとんどが身内になると言われているクラウドファンディングが、

「友人から聞いて!」というご支援も多くいただいており、一人ひとりの力を合わせて、

このプロジェクトを進められているんだ、と感謝の気持ちでいっぱいです。

 

 

これからも、シリアの人たちと日本との架け橋になるようなプロジェクトにするべく、動いていきます!