大聖寺藩の十村制度

 

大聖寺藩では、町奉行が大聖寺城下の町人たちを、郡(こおり)奉行が領内の村々に住む農民を支配していました。そして村々を支配するために、大聖寺藩では、加賀藩にならって「十村(とむら)制度」というしくみを採用していました。この「十村制度」は、地元の有力農民を「十村」として藩の味方につけ、農村全体を管理・監督し、年貢の収納をスムーズにするためにつくられた制度だそうです。

十村制度が導入された背景には、加賀前田家と加賀一向一揆との関係があるといいます。加賀藩の藩祖である前田利家は、織田信長の命を受けて加賀一向一揆を鎮圧しましたが、その際に門徒1000人以上を虐殺したといわれます。そしてこの一揆に対する弾圧により加賀の労働人口が大幅に減少したため、加賀藩内では年貢の徴収がはかどらなかったようです。

一方、前田家は100万石を有する強大な外様大名であったため、江戸幕府から度重なるお手伝い普請や軍役を命ぜられ、その支出はかさむ一方でした。そのため徴税にあたる「給人」(家臣や代官)が、農民からきびしく年貢を取り立てようとしましたが、父祖を殺りくされた加賀の農民たちの怒りは増大し、捨て身のサボタージュや逃散が相次ぎました。

加賀藩はもしこれ以上農民を追いつめて、大規模な一揆でも起こったら、幕府に介入の糸口を与え、減封改易を受けることを免れない危機的な状況に追い込まれていたのでした。現に、3代藩主利常は、1631(寛永8)年から3年間、謀反の疑いをかけられ、江戸の上屋敷で軟禁されるなど、江戸幕府からにらまれていました。だから、利常は前田家のおかれた危うい立場をしっかり胸に刻みながら、藩政の安定化を図る必要がありました。

農政改革をすすめる利常は、加賀地方の農村部に一向一揆の際に組織された門徒指導者を中心とする社会秩序が江戸時代に入ってもしっかり機能していることに着目します。そして、思い切って農村の監督・徴税を農村の有力者に委ねることにしたのです。

この「十村制度」には3つのメリットがありました。まずは「農民にとってのメリット」です。徴税するのが仇敵である前田家の侍や役人ではなく、昔からよく顔を知る信頼あつい農民なので抵抗感が少なくなりました。2つめは「十村にとってのメリット」です。十村につくことで、自分の持っていた既得権を藩から公認された形となります。また扶持も与えられ、その権利は多くの場合世襲となって継承されました。

そして「藩にとってのメリット」です。万一、徴収が厳しく農民が不平を訴えたとしても十村は農民であるため、この制度により、農民同士の争いとして処理することが可能になったのです。

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大聖寺藩内の村々は、8行政区=組(西ノ庄・北浜・潟端・能美境・那谷谷・四十九院谷・紙屋谷・奥山方)に分けられ、それぞれ十村が置かれました。十村は、郡奉行や改作奉行の下位、肝煎の上位に位置し、大聖寺藩の農政実務をおこなう上で、大きな役割を果たしました。(2012年度加賀市観光ボランティア大学第15回講座 大聖寺藩いいとこつかみどり」における江沼地方史研究会・伊林永幸先生のご講演をもとにまとめました。)

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