西日本新聞の方に、本刀の刀工について少し調べて頂き、藤原國筧は「ふじわらのくにたけ」と読むと教えて頂きました。「くにかけ」かと思っていました。

堀川派として名前が残っている刀工ですが、実は堀川派の開祖である堀川国広と伊東氏は深い関係があります。

伊東一族から、遣欧天正少年使節団の団長である伊東マンショが輩出されている事は本文でも触れました。

天正5年(1577年)、島津軍の侵攻を受けて落城する綾城(宮崎県綾町)から、8歳の伊東祐益(マンショ)坊やを背負って逃げたのが田中金太郎という人物です。実は、この人が後の堀川国広です。この時40代半ばで、その後主君と別れ諸国を放浪し刀工としての名を上げていきます。

伊東氏復興の後、有名刀工として飫肥藩伊東家と引き続き良い関係を保っていたようで、幾つもの名刀を納めたと伝わっています。

一種のスポンサー的な形だったのかもしれません。

伊東一族に堀川一門である藤原國筧の刀が家宝として伝わっているのはごくごく自然な事と考えられますし、当人も本気でいい刀を打ったのであろうと思います。

返還後に専門家の方々に調べて頂き、もっと詳しい事が分かれば嬉しいです。

新着情報一覧へ