写真集『アイヌ、100人のいま』の刊行を待つ

 

宇井眞紀子さんの写真家としての果敢な挑戦が、最後の大きな山場を迎えている。日本列島に生きる100人のアイヌの人々を訪ね、それぞれが「ここ」と定めた場所に共に赴き撮り続けた2009年からのプロジェクト。My portrait Myselfが遂に完成し、間もなく『アイヌ、100人のいま』と題して刊行される。


撮影を終えたひとりが、次のひとりのアイヌの知人を被写体として紹介し、リレー方式でつないできた。機材を積み込んだ愛車を駆り、フェリーに載せて、北海道網走郡から南は奄美大島までジグザグと移動を繰り返し、季節を越えて一期一会の場に立った宇井さんは、いったいどれほどの回数、シャッターを切ったのだろうか。撮影の場や設定、時間、共に写る人の有無、着るものなどの決定は、相談はあっても、被写体に委ねられたと聞く。しかし無数のカットの中から、写真家として被写体を捉えたと確信する1枚を選んだのは、宇井さん自身。こうして年齢、性別も異なる100人、それぞれの「いま」を語る写真集が、間もなく私たちの手許に届く。
 
千葉県出身の宇井さんと、札幌出身の私は、ほぼ同世代。日本の中に、異なるルーツ、歴史を持つアイヌという人々がいることを、私たちが知ったのも、共に小学生の頃だった。しかし宇井さんは、カメラという表現と記録の方法を磨いた後、アイヌの人々の懐に飛びこみ、その世界観、個性溢れる生き方に惹かれて、20年以上にわたり撮影を続けてきた。国内外で高い評価を獲得した既刊の写真集二冊には、同じご飯を食べ、歓びを共にし、アイヌ文様を習い縫う針を持った手でカメラを構え、日々の暮らしに寄り添いながらシャッターを切った珠玉の写真がおさめられている。この20余年はまた、アイヌの人々が、言葉やさまざまな手仕事、音楽を学ぶ場を育て、海外の先住民との交流を重ね、先祖供養の儀礼(イチャルパ)を行って、民族としての誇りを回復する歴史のうねりの中にあった。ゆえに彼女の写真集は、この時代の記録であり、目撃者としての意義を備えている。
 
だが、今度の新刊はいささか異なる。被写体であるアイヌの人々、ひとりひとりのまなざしが、写真を見る私の「知」の内実を問いかけてくる。「あなたは、私の、私たちの何を知っているのか」と。そして気づかされるのだ。私が得てきたアイヌに関する「知」が、実は、いまを生きるアイヌの人たちに対する「無知」を生んでいるのではないかと。翻って宇井さんの作品には、ひとりのアイヌと向き合って得る「知」を、100回も愚直なまでに積み重ねていくことでしか得られない、そのような類の「知」が宿っている。歴史を経て、ひとりひとりのアイヌが、「いま、ここ」に生きている。その息づかいが聞こえる。100枚の写真から伝わってくるのは、どんな場所で、何を生業としていようとも、またどんな衣服をまとい、何に夢中になっていようとも、「私はアイヌである」という静かな、そして深いメッセージである。

 

振り返れば、北海道生まれ、育ちの私は、「アイヌとは○○な民族である」といった類の先入観にとらわれ、一方的に「アイヌらしさ」を探し求める眼鏡をはずすことが、長い間できなかった。未知のアイヌの人々に出会うことをためらわず、シャッターを切り続けている宇井さんが、そして宇井さんという一人の他者に自然体で向き合う100組のアイヌの人々が、私には眩しい。時代の肖像とは、かくして生まれ、残っていくものに違いない。

 

 

池田 忍(千葉大学・文学部教員/美術史研究者)
 

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