【Facebookに投稿したものと同じ内容になります】

 

 3/28(土)の公演では、花巻農業高校の鹿踊り(ししおどり)を招聘します。故・岡本太郎氏も花巻の鹿踊りに感銘を受けた1人で、東北を訪れて記した著書にも鹿踊りについて触れています。

 

 その部分を引用します。
少し長くなりますが、鹿踊りがどんな伝統芸能なのか、感じていただければと思います。

 

================================================

 

・・・・・・

 話を花巻温泉にもどそう。私はこゝでまた別の面から、強烈な印象を受けた。それは鹿踊りと、鬼剣舞である。鹿踊りについては、私ははじめから、かつての縄文文化人が鹿の肉を常食にしていた時代の呪術的儀礼からの伝統だとにらんでいた。 ちょうどアイヌの熊祭りと同じように。生活のためにそれを殺し、肉を食う。獲物を豊かに得るための呪術であり、またその霊に対する感謝、慰撫。そしてまた食べられてくれという願いをこめての、当然の儀式である。狩猟民族の面目がこゝにある。だから中央文化や仏教の以前、山と山の間にはさまれ、狭い世界に自然と格闘しながら生きていた時代の原始宗教の名残りに違いない。

勿論、実際に見て確かめないうちは何ともいえない。しかし、ひどく興味があった。……あるいは、この疑問をとくために、今度岩手を企画したのではないか、と今になって自問自答するほどだ。

 

 風土記全般にわたることなのだが、あらかじめ直観し、設定した問題をぶつけて行く。さて、相手がどんな風にそれを受け、応えてくるか、その本質は?―いざ目の前に展開するまでが、私にとっては大へんなスリルなのである。

ようやく田植の農繁期も一段落した頃なので、わざわざ私の為に、鹿踊りと剣舞の人たちが花巻温泉に集って、場所をえらんで演ってくれた。

 

 新緑の木立を背景に、鹿踊りがはじまる。紺と赤の素朴でおもおもしい衣裳。黒漆塗、金、赤鮮やかに色わけされた、木の鼻づらを揃えて、ススキの穂をかたどった長いサゝラを天高く背負った鹿が、ずらっと横にならんで、低く太鼓を鳴らしはじめたとたん、すくい上げられるような歓びを感じた。ドライなジャズの出だしとちょっと似ている。だがはるかに神秘的だ。ジャズは身体がうきうきと動きだしてくるが、こいつは精神がテンドーしはじめる。

太鼓を打ち鳴らしながら、さつと足をあげ、逞しい鹿の角を揃えてきつと天をふりあおぐ、おどろな毛が空を切り、からみあう。
しかしそれはもう鹿ではない。獣そして、それは又人間そのものの気配でもある。人間動物。どっちだかわからない。その凄み。

 

 人間が動物を食い、動物が人間を食った時代。あの暗い、太古の血の交歓。食うことも食われることも、生きる祭儀だった。残酷で、燃えるような、宇宙的な情熱が迫ってくる。そういうものをふるい起さないで、ヒューマニズムもちゃんちゃらおかしい。どうも私は人間よりも動物の方にひかれるらしい。今日の人間があんまり温帯植物のように、無気力に見えるせいだろう。
すっかり嬉しくなってしまった。私の今まで見た中で、そういうものが最も純粋な形で残っている。稀有な例だ。
 

 鬼剣舞はこれにくらべればずっと時代は新しい。念仏踊りの系統を思わせるが、スポーティで歯ぎれのよい妙技だ。

双方を通じていえることだが、その空間的な舞踊性は日本では珍しい。いわゆる日本舞踊は大たい、腰から下はベタッと舞台にへばりついてしまって、小手先のしなや目つき、首つきだけで叙情性を出したり、物語る。観念的、形式的だ。中国の京劇にしても、沖縄舞踊にしても、身体全体が浮游し、なめらかに空間を切り、躍動する。このリズミカルな空間構成こそ舞踊性だ。私は舞踊に関しては、日本の国土にはやゝ絶望していたのだが。

岡本太郎「岩手」 (同著『日本再発見-芸術風土記』所収)

 

※写真も岡本太郎氏による撮影

 

新着情報一覧へ