私には十数年、生活を共にしたパートナーがいました。後半の数年は私の家族とも同居し、実質的には結婚相手のような状態でした。ボランティア団体の職員として働いていて、毎日遅くまで職場に残り家に帰ってくるのは夜中という日が多く、休日はぐったりと寝床から出てこない生活でしたが、私が沿岸など遠くへ仕事へ出かける時は、わざわざ自分の休みを合わせて同行したがりました。障がい者や恵まれない立場にいる人々への関心が高く、音楽療法の現場ではそんな対象者をさりげなくサポートして、私の仕事を助けてくれました。とても尊敬できる相手で、私は一生苦楽をともにしていくのだろうな、とずっと思っていました。パートナーのいない生活なんて考えられませんでした。

 

 2010年、夏の終わりのある日。私のパートナーは仕事から戻ってきませんでした。普段から遅くなる時の連絡がマメでは無い人だったので、しつこくメールしても嫌がるだろうなと思い、夕食の支度をしながらゆっくりと帰りを待っていた時に。

 

 市内の病院から電話がありました。私のパートナーは業務中に職場で突然倒れて、そのまま搬送先の病院で息を引き取った、と電話の相手は私に告げました。私は、不思議なことに一切取り乱すことなく、自分でも驚くほどこの知らせを受けいれ、家族に安置されている病院へ行くと伝えてそのまま自分で運転して向かいました。

 

 弟と奥さん、母が心配して後から駆けつけてくれましたが、私のパートナーが原因の分からない死に方をしたことで、遺体には引きあわせてもらえませんでした。精神科医の弟は以前から警察と一緒に仕事をしていたつながりがあったので、弟だけは特別に安置所の中に入り、警察からの説明を聞くことが出来ました。弟は出てきて、私に言いました。

 

「脳内で大量の出血があって、それが原因らしい」

 

 しかし、それ以上のことは分からないまま、司法解剖のためにパートナーの遺体は病院から警察へ運ばれました。パートナーの家族には弟が連絡をしてくれました。警察の廊下でじっと待っている間、別室でパートナーの家族が駆けつけて、大きな声で泣いているのが聞こえましたが、私は結局その日は「家族ではない」という理由で亡骸を見ることが出来ませんでした。

 

 数日後の葬儀は、パートナーが生まれ育った遠く離れた土地でとり行われ、私は友人のひとりとして後ろのほうでひっそり参列しました。この日、初めて変わり果てたパートナーの顔を見ることが出来ましたが、全く涙は出ませんでした。あらゆる感覚が麻痺していました。いったい、どういう経緯でパートナーは亡くなり、この状況に至ったのかを、どうにかして本人から直接聞いてみたい、という気持ちだけでした。しかし亡骸はすぐに荼毘に付され、私は釈然としないままパートナーがいなくなった自宅へ戻り、遺品の整理を黙々と行いました。

 

 じっと私の話を聞いていた仮設の女性は、静かな声で私にこう言いました。

 

「悲しみをどう、乗り越えたのですか?」

 

 私は答えました。

 

「乗り越えたのかどうか、自分では全くわからないんです。亡くなった直後、悲しいとか悔しいとか腹立たしいとか、そういう感情は一切沸き起こらなかったんです。今の今まで、一度も涙が出てません。15年以上前に父が癌で亡くなった時も、家族は全員悲嘆に暮れて、毎日泣いていましたが‥私だけ気丈に振る舞っていました。長男だから、という責任感もあったのだとは思いますが、もしかしたら喜怒哀楽を表に出すのが下手なのかもしれません」

 

「でも」

 

 彼女は続けました。

 

「悲しくない訳は、無いでしょう。今あなたは震災で傷ついた人の前に立って、そうやって笑顔を届ける日々を送っているけど、そうなるまでに何があって、立っていられるのでしょうね」

 

「苦しみは、ずっとありました」

 

 私は誰にも話したことのない、心のうちを初めて口にしました。

 

「パートナーの死後、私の友人たちは私が自殺するんじゃないかって、ずっと心配だったようです。それくらい長年、一緒に仲良く生活をしてきたのをみんな知ってくれていましたから。私は、全く自殺は考えませんでした。でも、この苦しみをどうにかして、終わらせることは出来ないものか‥考えてました。寝ても覚めても現実がのしかかって、苦しいんです」

 

 今はもういない人に会いたいという気持ち、その重圧に毎日押しつぶされそうになっていた私に、救いの手を差し伸べてくれた人がいました。一人は葬儀の後にすぐ岩手に駆けつけてくれた友人。彼は何も優しい言葉は発せず、ずっと何日かを一緒に過ごして支えてくれました。帰り際に

 

「あとは一人で乗り越えなさい」

 

 と一言だけ残して。もう一人は、東日本大震災の直後、私がどうにか音楽療法士として支援活動が出来ないものかと右往左往していた際、偶然立ち寄ったボランティアセンターにいた顔見知りの女性です。彼女は私のパートナーとずっと一緒に仕事をしてきました。死後、顔を合わせるのはその日が初めてでした。藁にもすがる思いで、私は彼女に直談判をして、どうにか支援の道筋をつけて欲しいとお願いしました。忙殺されていた彼女は最初、あまり良い顔をしませんでした。焦った私が

 

「××(パートナーの名前)が生きていたら、きっともっとスムーズに(支援をお願い)できたんでしょうけど」

 

 とうっかり漏らした時、語気を強めて

 

「どうにもならなかったと、思いますよ」

 

 と吐き捨てて、建物の中へ戻っていってしまいました。私は軽率なことを口走って、彼女の怒りをかってしまった‥と激しく後悔しましたが、数分後に彼女は片手にノートを携えて私の前に立ち

 

「私は何のお役にも立てそうにありませんが、この部署のこの人に連絡して下さい」

 

 と言って私に電話番号と名前をメモに書いて渡してくれました。これがきっかけで、私はその後何年にも渡って被災地支援の音楽療法士として活動をすることが出来たのです。

 

 町の外れの仮設を去る時に、高齢の女性は私に手を差し伸べて、握手をかわしてくれました。私はいつかどこかで再びお会い出来るといいですね、と告げました。彼女は

 

「明日という日があるなら、ですね。お会いしましょう、必ず」

 

 と笑顔で答えてくれました。

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