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東海道上にある名刹・清見寺には、『食人之食者死人之事』と書かれた咸臨丸殉難者の碑があります。

現在の清水港の興津宿の隣、江尻宿で港の発展に尽力した清水の次郎長が咸臨丸の『壮士墓』を建てたことを転換期とし、死者の追悼と清水港の発展を願って、清水港の景勝地・清見潟の清見寺に建立した石碑です。

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清水の次郎長と呼ばれる人物は、山本長五郎と言う名の侠客でした。
青年期は任侠の世界で海道一の大親分として恐れられていました。

しかし、転換期が訪れます。
慶応4年に伏谷如水に海道警護役(警察署長)に任命されます。
始めは、自分のような者がお役人になどなれるわけがないと断り続けますが、熱心に頼まれ続けついには、引き受け駿府東海道の治安維持に務めます。
この時から清水次郎長の人生が大きく変わります。

明治元年9月18日、清水の街に突如大砲の音が鳴り響きます。
次郎長は、酷い光景を目にします。
清水港に帆柱が折れ修復の為に咸臨丸が入港していました。
旧幕府軍の咸臨丸を発見した官軍は、白旗を上げているにもかかわらず容赦なく乗り込み斬殺して遺体を海に捨てていました。
そしてすぐに、賊軍である咸臨丸の船員に触れたものは反逆者として処罰すると高札が立ちました。
その為に誰も手を出す事ができずに悪臭と酷い光景に町民は悩まされました。

そこで、次郎長一家に相談が持ちかけられました。子分達は、生きかたを変えて頑張っている親分にそんな事はさせられないと止めます。
しかし、夜中になると『たとえ知らない人間であっても、そこで仏になってしまえば賊軍も官軍も関係ない、その土地の人間が供養するのが人の情けというものだ。』と子分を動かし遺体を回収し供養します。

9月の末頃に駿府藩役所より出頭命令がでます。
こんなことができるのは、次郎長の他にはいないと噂により発覚してしまいました。
しかし、呼び出した松岡万に次郎長は嘘をついたり逃げたりもせず、自分がやったことを認めた上で、人の道として当たり前のことをしただけだと主張します。
しっかりと次郎長の主張を聞き、またかつては幕臣でもあった松岡万は心を打たれ、お咎め無しとしました。

静岡藩大参事の任に就いていた旧幕臣の山岡鉄舟は、咸臨丸事件での次郎長の働きや言葉を聞き、深く感謝し、鉄舟は次郎長がつくったお墓に、「壮士の墓」という銘を与えます。

この後、社会実業家としての人生が始まり、清水港の発展には茶の販路拡大が不可欠だと考え、廻船問屋の経営者を口説いて周りました。自身も、明治十三年に「静隆社」の設立に携わり、蒸気船を3隻かかえて何度も横浜と清水を行き来します。
こういった次郎長の動きがあって、清水港は外に開かれた港となり、静岡のお茶はアメリカへも輸出されて、日本一のお茶の輸出港となります。

大きくなった清水港には、軍艦も出入りし、将兵たちがたくさん出入りしました。
そこで、明治19年に船宿「末廣」を開業しました。

明治二十年、この景勝の地に清水次郎長は清水港の発展も願って「咸臨丸殉難者の碑」を建てました。

明治二十三年、海軍少尉小笠原長生、軍艦天城に乗り込んで清水港へ。末廣の次郎長を訪ねます。

明治二十六年、三代目お蝶に看取られながら、風邪をこじらせた次郎長はその生涯を終えました。

現在もその石碑は、名所・清見潟の古刹・清見寺から清水港の発展を願って時の流れを眺めています。

 

 

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