水口屋物語 by Oliver Statler〜『一碧楼水口屋』と『坐漁荘』〜
水口屋旅館 歴代当主 望月半十郎と元老・西園寺公望

明治維新後、東海道には鉄道が開通し旅をする事が容易になりました。
そして、いにしえの時代から景勝地で知られた清見潟は、国の中枢の人物から別荘地として選ばれました。


別荘を建てた人物で一番有名な方は、西園寺公望氏です


最後の元老で知られた西園寺公望氏は、『坐漁荘』と言う名の別荘に住み、当時は西園寺氏に相談の為に訪ね一碧楼水口屋に宿泊する『興津詣で』が有名になりました。


平和外交で知られる西園寺氏は、興津の町民からも人気がありました。


こうして一躍、有名になった水口屋旅館は、Oliver Statler氏の『JAPANESE INN 水口屋物語』で小説にされ、当時はベストセラーになりました。
一部を少し引用しご紹介致します。


東海道の宿 JAPANESE INN 水口屋物語 <by Oliver Statler 斎藤襄治訳>(ニッポン歴史の宿)】より引用

<<清見潟が、政界の別荘地になり、最後の元老・西園寺公望の坐漁荘ができる。>>

興津に魅せられた政治家のうちで西園寺侯爵ほどそこに長く住み、町と深い縁を持った人はいなかった。…


大正八年興津に移った。
総理大臣も総理大臣志願者も策を授かりたい人間も数分間の西園寺詣をするために興津に詰めかけた。

滞在が長引くこともあったので、水口屋を宿にした。…


西園寺は家を建てるために京都から大工をよんだ。

自らも京都の人間だったので、事の落ち着いた趣味が身についていた。…


彼はこれを坐漁荘と名づけた。

坐漁荘とは彼の余生の計画をあらわしたものである。

興津で磯の香りを楽しみ、美しい駿河湾を眺めながら、余生を平和に暮らすことを願ったのである。…


海辺の土地は二代目半十郎が売ったという者もいたし、いや二代目は西園寺が第三者から買うのを手伝ったという者もいた。

ある日、筆者は半十郎の孫に当たる現在の四代目に真相をただした。

かれ(四代目望月半十郎)は沖合を眺めながら答えた。

『実を申しますと、西園寺公に差し上げたのですよ』

かれは笑って語り続けた。

『もちろん祖父は気前が良かったわけではないでしょうが、差し上げれば、もっと大きな得をすることを心得ていたと思います。』

孫の多少あけすけな批判にもかかわらず、二代目が西園寺を利用した証拠はない。

人を利用することなどは二代目の性格から考えられないし、たとえ利用しようとしても、それに乗ることなどは西園寺の性格から考えられない。

土地の贈与は単に、二代目が妻や世間の手前、抜け目のない取引と見せかけたが、実は気前の良い行為であったろう。

無論、西園寺の存在のおかげで利益を得た。

元老の属寮や訪問客は水口屋に泊ったが、それは半十郎が興津一番の宿にしたばかりでなく、どの標準から見ても大層立派な宿であったためである。…


水口屋は相変わらず西園寺の自称腹心たちで満員であった。…


平和な歳月であった。西園寺氏は、老人らしく、朝早く、ときには未明に起きて石段を昇り、清見寺の古刹まで行って日の出を楽しんだ。

ときには朝の鐘つきを済ませた住職と話し込んだりして友達になった。…


このころは平和な時代であったが、長くは続かなかった。…


昭和六年の始めに彼らは攻撃に移った。政府を転覆し、軍部の独裁を確立するために一大クーデターを企てた。…


次の『事変』を待つのに時間はかからなかった。…


全部で二十名を暗殺する計画であった。

西園寺もリストに載っていたが、刺客は二週間清見寺の裏山から見張りを続けたあげく断念した。…


初代半十郎が亡くなると、水口屋には現役の当主がいなくなった。

三代目は病気で引きこもったままで、その長男(四代目望月半十郎)は宿屋に興味がなく、大学を出てから銀行に勤めていた。

この年、長男は転職した。

このころには西園寺の秘書原田は望月家と昵懇になっていたので、この長男に目を掛けた。そこで彼の秘書になるよう勧めた。…


昭和十二年近衛が首相に就任して一カ月後、軍はいわゆる日華事変を演出した。

近衛はそれを阻止しようとしたが、途中で自己主張を引っ込めて増兵を承認した。…

<<平和外交の西園寺公望氏が薨去し、戦争が始まってしまう。>>

西園寺公は昭和十五年の暮れになる前に病が重くなり、同年十一月二十四日小さな邸宅で薨去した。

平穏に暮らす願いを込めた邸宅で。

望月青年は、霊柩をのせた列車に同乗して最後の東京への旅のお供をした。

その後一年あまりして、西園寺に近かった他の人たちと共に老公が日本の対米英戦を見ないで亡くなったことがせめてもの幸せであったと語り合った。

しかしかれはひたすら西園寺公の死をいたんだ。

日本の津々浦々で、興津でも、また水口屋でも皆悲しみにくれた。

<<戦後、水口屋20代目当主4代目半十郎、水口屋再建。そして昭和天皇が御宿泊される>>

私(著者・オリバースタットラー)は、日本を発見している気持ちになり始めた。…


友人と私は、東海道沿いに歩いて漁師の家の間に西園寺公の小さな屋敷を見つけ、疲れ果てた老公が負け戦を戦ったその居間にたたずんだ。

さらに町外れで井上候の邸宅の焼け跡に行き当たり、糠山を登ってかれの銅像の置かれた頂上のコンクリート製の台座のところまで行った。…


われわれは町の裏山に登った。

富士が聳えるみかん畑の中を散策した。

六月には花で香ばしく、十二月には枝もたわわに実がついた。

興津川に沿って古いほこりっぽい道を遡って行った甲斐があり、われわれは造り酒屋を見つけた。

望月家同様に武田氏の家臣であったが、武田が亡びたとき、この地に落ち着いた一家である。…


われわれはほろ酔い気分で宿屋に帰った。…


われわれは清見寺の石段を登った。

ときには仲間が拝んでいる間、一三〇〇年にわたって仏教が日本の歴史に及ぼした影響を感得することができた。

家康が幼少のころ学んだ小さな部屋や慶喜が大政奉還のために京都に上る途中、一夜を過ごし、また明治天皇が日本を近代世界の一員とするため江戸へ向かわれる途中、泊まられた別邸を参観した。

険しい段々畑が天然の円形劇場を形作っている地点に立ち、世をすくうように定められた釈迦の弟子、五百羅漢の石像を見上げた。

風雪の試練とかびのため目鼻立ちが柔和になり、一部は欠けたり、壊れていたりしたが、杉の大木の葉洩れ陽に照らされながら、ドラマの進行を追う観客の様にたたずんでいた。…


清見寺を辞する折、石段の頂上から三保にかけての湾を見渡した。

われわれは駿河湾に沿って三保ノ松原へ行った。砕ける波、黒い砂、浜風にたわめられた磯馴松。

天女が水浴びの折羽衣を掛けた松を見、羽衣を盗んだ漁師からそれを取りもどそうと天女が舞を踊った浜辺を歩いた。

靴に砂が入ったが、富士の眺めは完璧だった。…


水口屋に戻ると、われわれはお帰りなさいと迎えられて、丁寧な茶の接待を受け、再び宿の元の温かい壁に囲まれた自分たちだけの世界に帰った。

われわれは気づかなかったが、三包ばかりの巻煙草を売って贅沢な週末を過ごすことができた戦争直後の経済事情は水口屋の主にはさらに別の一層厳しい現実を見せつけた。
望月(四代目望月半十郎)は言うのであった。

『戦前には私どもは裕福でしたから、宿屋に客があろうが無かろうが無関心でした。

他の財産から収入が十分にありました。しかし戦後は事情が一変しました。農地改革で農地を失いました。

税金が重くなりましたので、他の財産も切り売りせねばならなくなりました。

宿屋自体も大半は私の祖祖父に当たる初代半十郎が立て替えたものでしたが、それも老朽化しました。

私どもは急に貧乏になりました。

これはショックでしたが、私共にはかえってよかったと思います。

私にとっても、息子たちにとってもよかったのです。

新しい目標と自立の精神を体得いたしました。…


終戦後一年半の間、旅館の営業許可さえ申請しませんでしたし、お客と言えば進駐軍の方に決まっていました。

私はわが家の財産が減って行くのを漫然と眺めていました。

宿屋を売って残った財産で食べていくのが最善の方針のように思われました。

ゴルフでもやろうかと思われました。

いつ私に宿屋が意味を持つようになったかは精確に申せません。

大方は友達のお陰です。

昔からのお得意様、それに伊沙子の父親の様な人たちが伝統を生かすように勧めてくれました。

どうやら徐々に水口屋は私にとって大切なものになってきました。

そして再建がやりがいのある仕事となりました。

資金はありませんでした。

借金をして計画を進めました。

全く新しい経験でした。

昔は銀行が私に頭を下げましたのに、今度は私が頭を下げました。

私は何糞という気になりました。』

望月は宿屋再建の全体の計画を建てた。

まず中央部を取り壊してそこに新しい宿屋の中心部を建てた。
三,四年後に建物の右翼を建て替えた。

そして最近、左翼を建て替えた。
新しい水口屋が出現し、繁盛するようになったので、望月は誓いを実現する手段を取った。
つまり半十郎を襲名して祖祖父が始めた家業の四代目存続者となったのである。

祖祖父こそは宿屋の伝統を通じて封建時代から現代まで続かせる基礎を気づいた人なのである。…

昔の華族はもう来ない。

爵位と共に財産を失ったからである。

今までと較べると、実業家が宿屋の最も大切な客となっている。

望月は言葉をつづける。

『宿屋を売ろうか売るまいか議論していた折、古くからのお客様を思い出しました。たとえば伊東家のことです。

わが家の記録は火事で灰になりましたし、十代以上前に遡りますと、先祖の名前、生まれ年、命日などさだかではありません。

でも水口屋は現存し、先祖が東海道のこの地で生きて働いていたことを証明しています。

その間ずっと旅人はここに泊り、憩いを見出し、元気を取り戻して旅を続けたのです。』

水口屋の二十代目当主は巻煙草の灰を落とし、輪を描いて立ち上る煙を見つめながら、

『私はこのきずなを断つまいと思いました。』と結んだ。…

噂が流れたのは七月、八月には協議が始まり、九月十六日に通達が届いた。…


水口屋が御宿泊所に選ばれた。…


モーニングをプレスしたり、着物をすぐ着られるように整えた。…


大型のメルセデスベンツが来た。流行など無視した皇室の自動車である。…


伊沙子は御到着とほとんど同時にお茶と茶菓を運んだ。

茶菓は陛下に差し上げた地方名物の最初の品であった。

望月は言った。

菓子は東京の有名な店に注文すれば簡単でしたろうが、陛下はいつもこのような菓子を召しあがっておられるでしょうから、何か変わった品を差し上げたいと思いました。

最初の日には宮様饅頭という小型の饅頭を差し上げました。

今から五十年ほど昔、ある宮様が清見寺に泊られた折に差し上げたので、その名が起こったのです。

宮様は気に召しました。

幸いにも陛下もお気に召したようです

町に夕闇がたれこめると、どの店先の日の丸の堤灯にも灯がともされた。

見渡す限り、川辺から水口屋の護衛付きの門前から、清見寺の曲がり角の辺りまで街道には一面に啓愛をこめた慶祝の灯がつづいたのであった。・・・


写真:水口屋跡石碑

 

物語に出てまいります。宮様にお気に召していただいた『薄皮の酒蒸しまんじゅう』は、実在します。

上品な薄皮に包まれたきめ細やかなこしあん、興津に明治から続く老舗和菓子店『潮屋』の【宮様まんじゅう】で、ございます。

是非ご賞味ください。

http://readyfor.jp/projects/okayaryokan/contribution?select_id=73700

 
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