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東海道五十三次の興津宿には、一碧楼水口屋と称される名旅館が30年程前まで存在していました。
武田信玄の家臣が始めた宿屋で、江戸時代は、東海道五十三次の興津宿の脇本陣として旅籠を営んでいました。

明治維新。転機が訪れました。

江戸時代の徳川家を支えた参勤交代が廃止されたなら、大名が泊まる本陣を筆頭に旅籠は急激な勢いでのれんを下ろした。
幸いな事に、興津宿は『東海名區 清見潟』と称される名所の中心に位置していた為、水口屋には他の宿と比べて余裕がありました。
そこで水口屋の17代目の主人・望月半十郎は、東海道をなんとかしなくてはと知恵を絞りました。


そうして考え出したのが『一新講社』という同盟結社である。
今で言う、旅館組合の前身ようなものである。


その為、誰でもメンバーになれるわけではなく、各々が、自立し、各宿場町の代表としてお客様に旅を快適にお過ごしいただけるよう、『強引な商売はしない』や『清潔さを保つ』等の加盟条件を設定し、宿屋周旋方同盟結社『一新講社』が誕生しました。
そうして、伊勢詣での旅人にうまく受け、東海道の活気が再び戻ったのである。

水口屋は、一新講社では、どの宿屋も、元『本陣』だろうと元『脇本陣』だろうと元『一般旅籠』だろうと、対等に考えていましたが、皆から発案者として大きく広告が出され、東海道の興津宿の水口屋は、同業者の間から有名になりだした。


そうして、景勝地 清見潟に所在することから、水口屋には元勲達が、避暑・避寒の保養地の旅館として訪れ、政治家・後藤象二郎が空と海の青さが一体となる地にある楼台として【『一碧楼 水口屋』】と称し始めたのです。


その後、水口屋は、『一碧楼 水口屋』として政財界の常宿として、

東海の一流旅館としての名が知られる様になりだしたのでした。

 

 
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