みなさんの引き続きの応援・ご支援のおかげであともう少しで目標の100万円達成のところまできました!現在時点で目標達成まで20万円を切っています。本当にありがとうございます。

 

三が日も終わり、みなさんの日々にも日常が戻ってきたころでしょうか。私たちも引き続き新着情報の更新を通して被爆者の声を届ける意義をお伝えしていきたいと思っています。

 

今回はこれまで2回「おりづるユース」としてピースボートに乗船経験のある鈴⽊慧南さんによる寄稿です。鈴木さんは休学していた期間を利用して被爆地のことをもっと知りたいと一時期長崎に住んでいたこともあります。行動力に溢れる鈴木さんを動かすものとは?ぜひ読んでみてください。

 

(畠山澄子)

 

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みなさんこんにちは。明治学院⼤学国際学科4年の鈴⽊慧南です。

 

私は第8回(2015年)と第10 回(2017年)のおりづるプロジェクトにおりづるユースとして参加していました。おりづるユースは105日間の世界を巡る船旅に被爆者の方のパートナーとして乗船し、世界中に、また一緒に船旅をしている乗客に原爆の記憶を伝えることがミッションです。

 

私はまた、その2回のおりづるユースとしての乗船の間の期間はおりづるプロジェクトのインターンとして東京のピースボート事務局でおりづるプロジェクトを⽀えていました。インターン期間中は、船から送られてくるおりづるプロジェクトの近況などをSNSで発信したり、イベントを企画したりしていました。

 

この時におりづるユース、そしておりづるインターンとして出会った被爆者の⽅々とは今でも仲良しで、よく連絡をとっています。私にとって彼らは親戚のおじいちゃんやおばあちゃんのような存在であり、また私のことをよく「孫が1 ⼈増えた」と⾔ってくれています。

 

第10回の「おりづるプロジェクト」メンバーと船内でのひとコマ。

 

私が被爆者の⽅々に初めて出会ったのは20 歳の夏です。サークルの夏合宿の⼀環として初めて広島と⻑崎を訪れたときでした。

 

それまで、「原爆」についての勉強や映像を⾒たりして、なんとなく想像していましたが、実際に被爆者の⽅の⾔葉を聞いたときのあの感覚は今でも忘れられません。今でもその時の感覚をなんと⾔葉で表現するのが正しいのか分からないほどに⽣の声を聞くのは衝撃的だったのです。

 

「人間が人間として死ぬことすらできない。」

 

人間としての尊厳とは程遠い亡くなり方をした人が大勢いて、今でも身元が分からない方や遺骨が広島と長崎に眠っています。そんな被爆地を、当時を生き抜いた方と歩きながら想像を膨らませて空を見上げたとき、たくさんの恐怖が私を襲ってきました。でも、唐突に「知らなきゃいけない。」とも思ったんです。それから「もっと知りたい。もっと聞きたい。」と思い、⻑崎を訪れる回数が増えていきました。

 

広島にて。2015年に一緒に地球一周をした被爆者の伊藤正雄さんと。

 

よく被爆体験を怖いから聞きたくないという話を聞きます。数えきれないほど被爆体験を聞かせてもらいましたが、私も毎回「怖い」と感じます。ですが、考えてみてください。「人が死んでいる」のです。怖くないほうがおかしいのではないでしょうか。その当たり前の感情ときちんと向き合うこと、こんなにも「怖い」ことが起きてしまったことをどう思うのか考えること、それが大切なのではないかと思います。

 

出会った被爆者の⽅の多くはこう⾔います。「この命がある限り、核廃絶にむけて声をあげていきたい。」その⾔葉を聞くたびに、私も頑張らなければといつも思っています。

 

おりづるプロジェクトへの参加は私なりの「できること」でした。「人を繋ぐ」ことはあまり得意ではありませんが、それでも「声を聞いて欲しい」という一心が私を突き動かしていました。被爆者の声を聞くことそのものが、ひとつの「継承」だと私は思っています。被爆体験を聞いたからといって人生ががらっと変わる人は少ないけど、「そういえば昔そんな話聞いたことあるなあ」ってふとしたときに思い出す瞬間は必ずあるはずです。

 

声を届けるために、演劇にしてみたり、紙芝居にしてみたり、歌にしてみたり。何かを工夫するだけでそれを受け取る人数はとっても変わります。難しいことを難しく伝えるのではなく、聞きやすいように伝えていって、その中で被爆者の方の声がより多くの人に届いっていったら、それが一番いいなと私は考えています。

 

2016年12月に行われたユース非核特使フォーラムでは自分の体験を発表しました


私は被爆者の方と出会って、人生ががらっと変わった人間なのですが、最初に参加した第8回おりづるプロジェクト(2015年)から帰ってきた2週間後の8月7日から翌年の4月まで長崎に住んでいました。休学を1年して時間があったので、長崎で学びたいと思ったのです。

 

修学旅行シーズンには被爆講話に同行させてもらい、「学生に伝える」とはどういうことなのか、体当たりで学びました。一緒に座り込みをやったり、時には飲み交わしたり。飛び回っていた1年間でしたが、その原動力は「被爆者の人に笑って欲しい」「彼らのために何かしたい」というシンプルな想いでした。振り返ればこの5年はそのシンプルな想いを原動力に前に進み続けた日々でした。人生で初めて、「当事者」と呼ばれる人に出逢い、その話をちゃんと聞き、とにかく動かねばと行動し続けたように思います。でも、偶然私が出会った当事者が「被爆者」だっただけで、もし他の当事者の話を聞いていたらその人のために何かをしていたかもしれないなとも思います。被爆者のために何かをするということはそんなに特別なことではなく、誰しもに経験のある「誰かの話を聞いて何かをしたいと思う」ことのひとつなのだと思います。

 

長崎滞在中には何度も被爆証言に同行した

 

被爆者の⽅々は72年前のあの⽇に本当に悲惨な経験をし、今、それを私たちに語り継いでくれています。あの⽇からずっと「原爆」に苦しめられてきてもなお、それをこの世界から無くすために毎⽇⽣きています。

 

そんなひたむきな姿を⽬にする時、私はいつも思うんです。

 

⼀体いつまで彼らは原爆や核兵器に縛られていかなければいけないのだろう、と。

 

あの⽇の経験をしたからこそ、もう忘れたいような、逃れたいようなそんな感覚が今でもあるはずなのに、それでも⾔葉を紡ぎ続けているんです。何百回政府に裏切られようとも、何度でも⽴ち上がり、⼿を取り合って前に進んでいるのです。その原動⼒は純粋に「もう⼆度と誰にもこんな経験をして欲しくない」という想いだけです。

 

そして、今年は歴史的なことに核兵器禁⽌条約が採択され、核廃絶に尽⼒するICAN がノーベル平和賞を受賞しました。72年間のひたむきな想いが確実に世界には届いていることを確信した瞬間の連続でした。

 

ですが、ここまで来るのに多くの被爆者の⽅が旅⽴ちました。この⽇を夢⾒て、まさに人生を核廃絶に捧げて亡くなった⽅が⼤勢いるのです。その⼈たちがいてこそ、この瞬間に出会えたと思っています。

 

たくさんの⼤好きな被爆者のおじいちゃんとおばあちゃんたち。そんな彼らの平均年齢も82歳を超えました。おりづるプロジェクトに参加して、世界中を回れる体⼒や修学旅⾏の時期に何度も証⾔する体⼒が少しづつ無くなってきています。

 

ICANのノーベル賞受賞を記念するイベントで被爆者の服部道子さんと

 

「話したいけど話せない」

 

そんな葛藤とも戦いながら、少しでも多く⾔葉を残そうと今でも多くの⽅が命を燃やし続けています。そして、被爆者のかたが⾔葉を託したい相⼿は⽇本⼈に限りません。彼らが⾔う「もう⼆度とこんな悲惨な経験をあなたたちにはさせたくない」と⾔う「あなた」には全ての世界の⼈に向けたメッセージなのです。

 

ノーベル平和賞の授賞式のスピーチでサーロー節⼦さんは「諦めるな。押し続けろ。光が⾒えるだろう?そこに向かってはって⾏け。」と⾔っていました。これは被爆当時に⽡礫に埋もれていたときに彼⼥の⽿に⼊ってきた⾔葉であり、核廃絶への道もこの⾔葉の通りだと⾔っていました。「無謀だ」と⾔わ続けてきましたが、確かに光はあるのです。私は諦めずに前に進みつづける被爆者のみなさんの⼤きな背中をいくつも追いかけてきました。

 

第8回おりづるプロジェクトメンバー同窓会


私はこれからも「被爆者と⼀緒に歩みたい」と願って、私にできることをやっているつもりです。たくさんの被爆者の⽅の話を聞く中で感じているのは被爆者の⽅が語るのは原爆の悲惨さだけではないということです。いつだって私たちの未来の希望を祈ってくれているし、「⽣きる」ことがどういうことなのかを教えてくれます。そんな⾔葉のひとつひとつをできるだけ多くの⼈々に届けたいと思っています。

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