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義経=成吉思汗、同一人物説のロマンと真相を追って
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支援総額

100,000

目標金額 4,000,000円

支援者
8人
募集終了日
2020年11月30日

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2020年09月14日 02:33

義経=成吉思汗、同一人物説について(その5)

『義経=成吉思汗、同一人物説のロマンと真相を追って』について

(その5)

  =源義経は衣川の戦い(岩手県平泉)で死んではいない(続きその2)=

       《 全ての原点がこの命題にあります。 》

日本の所謂、正統歴史家の方々は吾妻鏡にある義経の死を歴史の事実《史実》として正しいという認識、理解しておられるようであります。

 

**従来の史実に対する数々の疑問点の具体例(続き)

4、秀衡の遺言(錦の袋に納められた遺書)などについて、

1187年10月、秀衡は遺書を残して死去していますが、遺書の内容は、

① 義経を総大将として一致協力して頼朝に備えること、

② 焼け首をこしらえるなど偽の戦いの示唆

③ 蝦夷地〈北海道〉への一時的な逃亡とルート

④ 大陸における金鉱山の存在 などであると伝承されています。

そして、秀衡は泰衡と義経に、

『進退窮まるときに、開いて見られよ。卿らの胸中は、雲霧を払うがごとく開けるであろう。』 と告げたと云われています。

 

5、中尊寺金色堂内の秀衡に寄り添う遺体(頭部分のミイラ)が泰衡のものである

と証明されたことについて、

 

○ 1950年、朝日新聞社による中尊寺金色堂の学術調査が行われ、それまで

約760年の間、義経自害の後、『泰衡に殺されたといわれる弟の藤原忠衡のものである』と信じられていた遺体〈頭部分のミイラ〉が『泰衡自身のものである』ことが判明した。(黒漆塗りの首桶には忠衡と記載されている)

 

これまでの定説が180度覆られたことや肝心の藤原一族は泰衡を正統歴史家の方々が言われる悪者であるとは考えていないということであり、調査・研究を見直す必要があるのではないでしょうか。

 

  *再調査の気配すら見られない! 言い出す人がいないのでは?

 

6、古文書や伝承、遺物等による平泉を脱出したと見られる数々の証拠等について、

 ① 義経は秀衡の死後、早い時期に頼朝の追討を予想し、平泉脱出を考え、家来

   の板橋長治と喜三太に北の方面の海辺に近い安全な場所選びをさせた。

   そして八戸・種差海岸付近を選び目指したと古文書「類家稲荷大明神縁起」

   に記されています。

 ② 義経の家来亀井六郎重清が記した糧米の借用証書(亀井文書)は義経一行の

   北行の前(1188年4月18日付け)に伊予守源義経、武蔵坊弁慶、亀井

   六郎重清の連名で平泉近辺の花泉の百姓・惣平に宛てたものであります。

 ③ 岩手県下閉伊郡山田町の関口部落にある佐藤家の古文書には、

   『出羽国の守護職「佐藤秀信」の長男「継信」次男「忠信」の兄弟は藤原

   秀衡の命を受け、1180年義経の供をして頼朝の黄瀨川の陣へ馳せ参じ、

   その後、兄継信は屋島の戦いで義経をかばい、敵の刃に倒れ討死にした。

   義経が平泉から逃れてこの地を訪れた際に三男「信政」がこの地方を案内し

   たと記され、その時継信の持仏であった熊野大権現の神像を信政に給わった。

   以来、佐藤家ではこの熊野大権現を守り、関口村藤ノ森に安置し奉った。

   子々孫々までこの神像を守り信心せよ』と書かれており、

   「文治4年(1188年)申ノ9月佐藤豊前信政(花押)」と署名されている

   とのことです。

   衣川の戦いより8か月以前の話です。

 ④ 宮古市長沢の竹下将男宅の裏山にある「長沢判官堂」には、義経の鎧兜像の

   石像が祀られており、ご先祖が同行を申し出たが、義経より「今や追われる

   身であることを理由に断られた」という言い伝えが残っています。

 ⑤ 北海道松前の七飯村村岡家に伝わる「松前福山略記」という古記録には、

   『文治5年(1189年)5月12日、奥州落同日に蝦夷地両山関へ渡海。

   管生太郎、松前庄司義行が道案内をする。

   大将源九郎判官義経公を始めとして、泉三郎忠衡、武蔵坊弁慶、常陸坊海尊、

   信夫太郎元久、信夫小二郎信近、亀井六郎重清、鷲尾三郎径春、備前平四郎

   行貞、増尾十郎権頭兼房、熊井太郎忠光、浦原太郎広元、村戸治郎春径、

   赤井治郎景次、黒井三郎定綱、日角小三郎義衡、法印浄玄御厩喜三太、頼念

   坊常玄などを始め、従う者主従100人余り。

   わずかに馬6匹引いて渡り、蝦夷地大将の帳達大王を討つ。

   韃靼国に渡り・・・・・・・・・・・・。

   文治5年(1189年)7月19日、鎌倉将軍右大将頼朝卿が奥州住人泰衡

   追討出立の時も多数蝦夷の国へ逃げ渡り、・・・・・・』 と

   記されています。

             (佐々木勝三氏等の著書「義経伝説の謎」より)

 

 

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