31日23時が迫って来ました。

 

ご支援の輪と共に、ゴールとなる100万円も徐々に近くなってきました!

皆様に向けるメッセージにも自然と熱くなることに、どうぞご了承下さいませ!!

 

クハ489-501の維持管理事業を請け負う遥か前、当時のJR西日本小松管理駅長から、「増収になる企画を作れないか」との雑談の中に、時間の余裕があった私(=ほぼ無職)は、元々の旅行業の職歴を活かして「駅プラン」というJR西日本直属の旅行部門の企画商品の発案をしました。

2001年8月に、「ボンネット撮影会」を金沢運転所内で実施することになったのです。

489系H01編成(当時の先頭車はクハ489-2)、H02編成(クハ489-3)、Y31編成(クハ481-337)を一堂に並べて、国鉄時代からJRに至るヘッドマークを展示しての、今なら夢のような企画でした。

参加されたのは約100名ほどで、参加料は確か3,000円程度でした。

駅長に幅広い人脈があり、現場から支社まで、様々な社員が一丸になりました。

イベントや事業をするということが、これほど多くの人員と労力を伴うという、「バックヤード」を拝するきっかけになったのです。

 

多くの反省をしつつ、その後もめげずに企画したのが2004年7月の、「金沢運転所設立40周年記念撮影ツアー」です。 やはり当時の小松管理駅長が主導をして下さりました。

上の写真の、左からクハ481-337、クハ489-5、クモハ475-51です。

一番こだわっていたのは、右のクモハ475でした。

クーラーが無骨なAU12S型という、当時残っていた急行型電車の中でもマニア受けする車体でした。

運転所の運用担当者が「こんな車両でいいの?」と言いつつ、運用調整もしてくれました。

国鉄色でさえない急行型電車に、昭和40年代から53年まで使用された大きなヘッドマークを付けた初めての姿に、ツアー参加者からはかなりの好感がありました。

 

2005年4月、JR西日本が引き起こした未曽有の鉄道事故で、北陸の地域観光は大きな転機を迎えます。

地域観光に多大な影響力と集客力を誇っていたJRからの事業ボイコットは、ようやく明るい兆しが見えてきた「産業観光」にも影を落としました。

そして富山港線も廃止するというのです。

 

この時に、「北陸はJR西日本本体とは違う」という信念を貫いて、道をつけて下さったのが、当時の金沢支社長でした。

JR金沢支社は、国鉄からの分割民営化で、国鉄名古屋支社から切り離されてしまった歴史がありました。

国の交通関連機関は北陸信越運輸局で、新潟にあります。

石川県の基幹運輸事業を行う北陸鉄道も名古屋鉄道の子会社です。

いびつな関係でありながら、北陸の経済界や行政は、JRに対してだけは大阪に目を向けていたのですが、時節柄行場を無くしてしまったのです。

そのため、地元の反発回避は支社にとって切実な問題だったと感じます。

「営業戦略ではなく地域貢献」という大義で、前年に展示した475系電車への関心が高まり、「国鉄色」への復活が為されました。

 

土台となっているのは、2001年と2004年の撮影会で集積した、ツアー参加者からの「アンケート」で、私が創ったものです。

「大糸線のカラーについて」「475系を使ったリバイバル列車について」「ボンネットを活かしたイベントについて」「キハ28系国鉄色を活かしたリバイバル列車について」など、一見「マニア偏重」です。

しかし、国鉄時代、必死に地域振興をした先人は、歴史として「急行」「特急」などに列車名を残しました。 それこそ、「観光の原点」ではないでしょうか。

富山港線は廃線直前に、驚くほどの経済効果を地元に落としました。 国鉄色の475系の貢献は、その後のリバイバル列車でもJR西日本のイメージ復権に寄与しています。

大糸線のキハ52型の国鉄色リバイバルでも、地元観光行政が目を見張った程で、今の糸魚川駅「ジオパル」にキハ52 156を展示する契機を作りました。

 

赤字路線や地域の悪いイメージを持つ沿線、これからは並行在来線となる小松周辺も然り、どんな手を使って「地域貢献」「産業観光の拠点整備」を成すかは腐心する部分です。

でも、私自身、そして今のクハ489-501にも、「人脈」や「バックヤード」への感謝、そして何より、参加し経済効果をもたらして下さる方々に期待されないと、「出来ない」「挫折」で萎んでしまうのです。

過去の道筋を踏まえ、「出来る」「可能性」さらには「進化」が達成されますよう、「チャレンジ」と「協調」を続けてまいります!!