前々回、田辺が吉野熊野国立公園に入り、拡張したことを書きました。

田辺の地で行われた『ナショナルトラスト運動』。
同地は、“エコロジー(生態系)”の概念が生まれた場所でもありました。
その概念の生みの親、『南方熊楠』。

 

 

南方熊楠は、明治の前年1867年に和歌山市で生まれました。
幼少から植物採集に夢中で、辞典や図鑑も写しに写しまくっていました。

 

17歳で大学予備門(現・東大)に入学するも、上野の博物館・動物園・植物園に通いつめたために落第しますが、「丁度良い機会」とそのまま自主退学し、アメリカへと渡りました。ミシガン州の州立農学校を受験して合格しますが、ウィスキーで泥酔し、廊下で爆睡しているところを見つかり、放校処分になります。以降は独学し、フロリダ、キューバ、ハイチ、ベネスエラ、ジャマイカを植物採集やフィールドワークしながら旅をしました。

 

1892年の25歳の秋に、英国へと渡りました。下宿で標本整理を続ける一方で、学会に出した初論文が1位入選し、イギリスを代表する科学雑誌『ネイチャー』に掲載されます。その後も計51回論文が紹介されました。連日、大英博物館へ足を運び、本を書き写していた熊楠。この頃は植物以外の人類学、民俗学、宗教学にも強く関心を寄せていました。

 

熊楠はその驚異的な博識により大英博物館の目録作成を依頼され、大英博物館東洋調査部員となりますが、東洋人への蔑視が酷い欧州で、その態度に怒った熊楠は何度も騒動を起こし、博物館を追放されます。その後は、翻訳の仕事や、浮世絵の販売などで生活費を稼いでいましたが、ついに困窮極まり、33歳の1900年に日本へ帰国しました。

 

帰郷後は酒屋を営む弟宅の那智勝浦に身を寄せ、日本の隠花植物(菌・苔・藻・シダ類等)の目録を完成するため、熊野での植物調査を行い、植物や昆虫の彩色図鑑を作りました。

 

37歳の1904年に、熊楠は和歌山田辺市に家を借り、居を定めます。田辺を「物価は安く、町は静かで、風光明媚」と絶賛した熊楠。最後の時までこの町で過ごしました。

 

 

この2年後に、熊楠を激怒させる出来事が起こりました。

それが、1906年に出された『神社合祀令』でした。

 

 

明治政府は国家神道の権威を高めるため、各集落にある神社を1村1社にまとめ、日本書紀など古文書に記載された神だけを残すことにしたのです。この結果、和歌山では3700あった神社が600に統合され、三重では5547が942まで激減しました。また、樹齢千年というご神木は高値で売れたため、廃却された境内の森は容赦なく伐採され、金へと換えられていったのでした。

 

このことに大激怒し、42歳の1909年に、熊楠は『神社合祀反対運動』を始めました。

 

未解明の苔・粘菌が多く棲む古木の森の伐採を熊楠は、「植物の全滅というのは、ちょっとした範囲の変更から、たちまち一斉に起こり、その時いかに慌てるも、容易に回復し得ぬを小生は目の当たりに見て証拠に申すなり」と訴えます。


このとき、熊楠は“エコロジー(生態学)”という言葉を日本で初めて用いました。
生物は互いに関係し、目に見えない部分で繋がっているという生態系の大切さを訴え、政府のやり方を糾弾しました。また、民俗学や宗教学の視点からも、人々の生活に寄り添う鎮守の森の破壊は心の破壊だと憤慨しました。熊楠は新聞各紙に何度も反対意見を出し、合祀派の役人を鋭く攻撃しました。

 

1911年、熊楠の反対運動に共鳴した内閣法制局参事官の柳田国男氏が、熊楠の抗議書を印刷して識者に広め、熊楠を支えます。翌年には、この抗議運動が世論を動かし始め、和歌山出身の議員が国会で合祀反対を訴えました。


そして10年間の抵抗運動がついに実を結び、1920年に国会で『神社合祀無益』の決議が採択されるに到ったのでした。

 

これ以降、熊楠は貴重な自然を天然記念物に指定することで確実に保護しようと努めます。熊野古道には、熊楠がいなければ伐採されていた巨木がたくさん残っています。

 

1941年12月29日に74歳で亡くなった熊楠は田辺市郊外の神島を望む真言宗高山寺に埋葬されました。

 

 

 

田辺の地には熊楠の自然に対する熱い魂が生きているのですね。


 

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