元看護婦の母が〝命〟というテーマに対峙した脳腫瘍闘病記を本に
支援総額
目標金額 1,500,000円
- 支援者
- 15人
- 募集終了日
- 2019年6月28日
本文の一部抜粋を紹介します<6>
三月七日(月)曇
「誰かが外で声かけているよ……。でも言葉がつうじないのよ……。喋っても伝わらないの……」
やおら、母の悪夢が始まった。
昭彦「誰と話ているの……」
母「怖い、怖いのよ。恐怖なんだよ……」
昭彦「怖くなんかないよ。今はちょっと夢を見ているだけ、もう少ししたら覚めるから、大丈夫だよ……」
私はたまらず、初めて母を抱きしめた……。そして、堰《せき》を切ったように声を上げて泣いた。
腕の中で、母も泣いている。でも母は体力がなく、時々泣き声をやめ、しばらくヒクヒクしたあと、またオンオンと声をあげ「怖い、怖いのよ……」と、呻《うめ》く。
そうして、どれくらいの時を過ごしただろうか。ひとしきり泣いたあと、母は私の名をよんだ……。
いま母は、否、おそらく誰もが、自分という存在がこの地上から無くなってしまうという想定を理解できない。今ある意思・思考は何処へ行ってしまうのかという認識が計れない。だから、恐怖せざるをえない……。
何年か前、難病をかかえた或る友人が言っていた。
「人がいつか死ぬという事は解っているけれど、その期限を言い渡されると、その瞬間から恐怖が始まるんだ。それが一年でも十年でも二十年でも関係ない。
『君の病気は治らない。でも、同じケースで最長十八年生きた人もいるよ……』って、何の慰めにもならないんだよ。まるまる生きたって十八年でしょ。それに向かって秒読みを数えるだけのことだ。」
絶えた命は一旦宇宙へ還り、また新しい姿を得る。それを本当に信じる事が出来れば、人は死を恐れなくなるのだろうか……。
三月十四日(月)曇
母を苦しめる失語症がいよいよひどくなってきた。
脳腫瘍患者特有の症状である〝失語症〟とは、発声器官そのものの障害でなく、発語や言葉の理解が困難になる病気だ。
そして近ごろでは、〝 ありがとう、ありがとう 〟と繰り返すばかり……。
〝残語〟といって、その人が最もこだわり執着している一言を残し、徐々に全ての言葉をなくしていく、この病いの典型である。
そうしてさらに、いつかそれさえも失ってしまう。
四月二日(土)曇
あいにくの曇天であるが、待ちに待った日帰り外出の日がやって来た。花見をかね、祖母の墓参へと出かけるのだ。母は、遠足の朝を向かえた子供のようなソワソワ顔で待っていた。
下部の温泉街を横目に見て、くねった山道を少し登ればすぐに当家菩提寺に到着だ。
墓碑は山斜面の二段目にあり、当然、母の足で直に参る事は叶わない。けれど、車中からも認められ、私たちが参る姿を母も見ていられるので安心だ。
側には樹齢二百年を超える見事な桜の木が鎮座し、草葉の祖母と共に「ヨシ子、久しぶりだね……」と、迎える。
本堂へご挨拶に上がると、住職尊師は奥の庫裏《くり》から出て見えられ、墓誌《ぼし》脇に塔婆《とうば》を立て読経の後、車中の母へもしばしお話を下さった。
「病気というものは肉体に現れる一つの現象ではありますけれど、実は、目に見える病気は本当の病いではないんです。真に重い病いと言えるのは、仏に不信や誹謗《ひぼう》を持ち、親や師に讐《あだ》を為すような人のことであって、心を病んだ状態を言います。」
母は、尊師の眼差しを凝視し、もの言わず深く頷いた。
✻
客殿へ赴くと参拝者の数も増えてきた。車椅子の移動で裾の乱れた母に、「あんまり、はだけた足を見せていると、参詣のお爺ちゃんたちが色めきだちゃうから気をつけてね……」と、裾の着付けを直しながら冗談を言うと、母は腹をかかえるようにして大笑いした。
そしてそれは、母が声を出して笑う最後になる事を、この時の私は知らなかった。
こうして、母の最後が一つ二つと増えていく……。
きっと、母が最後に歌う日、最後に子の名を呼ぶ日、最後の食を口にする日……。
そうしていつか、本当の最後が来てしまうのか。
ともあれ、これが母の冥土の土産となったわけであり、翌日、「とにかく……、とにかく、楽しかったー」と、しみじみ母が言ってくれたのは何よりであり、行って良かった、行けて本当に良かった……。そう、つくづく思えた最後の旅である。
リターン
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