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アスペルガー障害者自立支援 電気通信工事の工具購入

アスペルガー障害者自立支援 電気通信工事の工具購入

支援総額

14,000

目標金額 700,000円

支援者
3人
募集終了日
2019年7月22日
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2019年05月02日 05:32

私の生い立ち

私は、35歳の時に統合失調感情障害と診断され、今日まで入退院を5回繰り返しています。私自身、その病気に納得はいってなくて今まで通院と服薬をしてきました。私は、書籍やインターネットで自分自身の本当の病気の根源が何なのかを日々調べていました。そうした折、私はアスペルガーかと関連付ける出来事がありました。

44歳の時でした。きっかけは、父との会話の中で、「お前は小さい時から一度言ったらほかの人の意見を聞かない。視野が狭い。引きこもり気味。」と言われた事でした。それまで自分は幼少期からの事を振り返るということをあまりしてこなかったので、生まれた時から今までのいろいろなエピソードを振り返ると今の自分の病気が分かると考え色々と思い返しました。

 

幼少期

公務員の父、公務員の母のもと長男として1974年12月25日に大分県佐伯市に生まれる。両親とも若くして結婚。当時の写真が残っていたので見てみると、よく母方の祖父母の家に遊びに行っていた。この頃の私は元気に外で走り回り、壊れた時計などの分解に熱中していたことを覚えている。

今の自分も物の作成や修理などが好きなのは生まれ持ったものなのかもしれない。

幼稚園の頃は、よく給食時間に女の子のエプロンを引っ張り、先生によく注意されたのを覚えている。

 

小学生のころ

小学校一年生のころは、授業に集中できず落ち着きのない友達とよく隣の教室のベランダから紙飛行機を室内へ投げ入れ注意されたのを覚えている。この頃、宿題で国語で音読があり私自身、「どもり」があり母親からよく怒られていたのを覚えている。

小学一年のころは勉強したというより学校にただ遊びに行っていたという記憶しか残ってない。それから小学二年の時に父方の実家の隣の新居に引越となる。小学一年のころはマンモス校で、引越し先の学校は1クラスのみ30人少々の少人数であった。いざクラスに入るといきなり初日に同姓の男の子とのケンカで幕を開けた。引越したばかりではあったが主張はしっかりしていた。このケンカ後はしばらく大人しくしている日々が続いた。小学5年のころに少年野球に入部した。入部した理由は、単に友達の誘いで即決し衝動的だった記憶がある。したがって練習も最初は楽しかったが次第に飽きてきた。しかし、サボったりしたことはあったが最後まで辞めずにできた。いやようにもこの頃に基本的な挨拶・礼儀は培われたと感じている。またこの頃よく急に息苦しくなり倒れ込む時が多くなった。また教科書を隠されるなどの多少の「いじめ」にもあった。未だに理由はわからない。この頃の自分の将来のことについてはちょうどノストラダムスの大予言が流行ってた時代ともあって、私自身、テレビや本の情報を信じ切ってしまい、「将来の事を考えても人類は滅亡するのだから」と計画してなかった。その考えは、中学生になっても変わらなかった。

 しかし自分の欲しいものがあると絶対に譲らなかった。デパートで大きい声で駄々っ子になったりもした。小学時代の遊びといえば特定の友達と遊んでいたが一人で遊ぶのが一番楽しかった。

 

中学生のころ

中学は、小学校よりも規模が大きくなり他校から始めてみる顔がクラスの3分の2を占めた。部活はサッカー部へ入部した。やはりこの頃「キャプテン翼」が流行り衝動的に入った。2年の頃は学校での素行は良いほうではなかった。3年になって高校の進路を考え出すと素行は良くなって行った。この頃の一番記憶にある事と言えばやはり進学先で悩んだことである。勉強があまり好きではなかった私は、それまで私の身内はみんな進学校へ通っていた。私には関係ないと言い聞かせていたがどこかで気にはなっていた。でも私は自分の決めた就職コースの高校へ進学した。

この頃の自分といえばやはり特定の友達と遊ぶか一人で過ごすことが落ち着いた。

 

高校生のころ

中学よりも人数が多く友達とも別れ別れとなった。入学式の時、突然、苦しくなりその場に座り込んだ。何とも言えない不安の中のスタートだった。それから3カ月位は高校になじめずほとんど不登校だった。この頃両親より病院を勧められ受診した。「自律神経失調症」との診断だった。当時は受け入れるしかなかった。1年の夏休みになり、甲子園を見てると無性に野球がしたくなりまたも衝動的に野球部に入部した。結果1カ月と持たなかった。部員からは「サボり魔」というあだ名をつけられた。しかしこのことがきっかけで勉強、特に商業経済・簿記に特化して成績を上げていった。たぶん自分の負の部分を好きな分野の勉強で打ち消そうとしていたのだと思う。2年になると友達の誘いで夏休み等にアルバイトに打ち込んだ。このアルバイト先が将来自分の最初の就職先となる。アルバイトの内容は冷蔵庫の部品の製造で自分は楽しくなり夢中で組み立てた。時間・疲れも忘れていた。3年になり就職進路指導で真っ先に決めて応募した。結果採用となった。就職先も決まりいよいよ自動車免許取得へ向けての勉強が始まった。学科は問題なく合格したが実際の運転の練習で何度か「見極め」をもらい他の人に比べ遅れをとった。でも何とか合格した。この頃は、一人でいるより友達と話をする方が楽しかった。そして卒業となった。

 

新社会人のころ

自分の好きな会社に入り自分の好きな経理の仕事ができると思うと心が抑えきれなかった。しかしそれは一瞬で地獄に落とされた。

辞令で「営業本部企画課」勤務を命じられたからだ。正直、苦手な営業ははっきり言って嫌だった。でも辛抱して快諾した。これが良かった。営業とはいってもカタログ作成やパソコンで顧客管理をする業務だったからだ。

自分には合っていた。少々失敗して怒られても耐えることができた。それは、自分に合った好きな仕事が出来たから。職場の人間関係も良好だった。バトミントン・駅伝・社員旅行など付き合うだけ付き合った。社外では地元の青年団に入団した。活動も勢力的に行った。でも青年団の活動に参加しているときの自分は自分の思いどおりに事が進まないとすまなかった。それは新聞つくりの時に顕著に現れた。一度締め切りを決めたら自分で間に合わないと思ったら全て自分で作ってしまおうとしていたところだ。周りから「みんなで作らないと意味ないよ」と忠告されても振り切った。しばらくして青年団自体が解散し、自分の青年団活動も終了した。

私生活に目を向けると、22歳の時に結婚を迎えた。その2年後に長男が誕生した。またその2年後に次男も誕生した。将来順風満帆に思えた。しかし会社の倒産で夢は打ち砕かれた。失業したのだ。

 

失業のころ

この頃は、ちょうど次男が生まれた時で、この先どうしていこうかを考えるのと、子供たちの世話で一杯だった。収入は6カ月間雇用保険があったが足りず私の親からの支援でしのいでいた。雇用保険が切れるころにラッキング補助のアルバイトが入る。アルバイトは6カ月間続いた。その後、私の父親より地元のケーブルテレビ局が技術職を募集していると聞き私に話をする。私は即決した。それは2001年6月の事だった。

 

ケーブルテレビ就職の頃

その年の9月に私は工事会社に見習いとして4カ月お世話になった。翌年の1月にケーブルテレビ局に正社員として採用された。2003年には長女が生まれた。その後7年間はケーブルテレビの保守とネットワーク保守・集合住宅のデジタル化改修工事の現場担当と資格取得のための勉強に日々昼夜問わず費やした。疲れ知らずで我武者羅に家庭を顧みず働いた。でもそれは長続きしなかった。

 

闘病のころ

突然の腰の痛みが私を襲った。軽度の「椎間板ヘルニア」と診断され地元の病院に入院した。3週間ほどで退院出来たが、職場に戻る気力がなく、診断の結果「うつ病」と診断されそのまま自宅療養となった。約1年間続いた。その間病院を2回変え最終的に現在もお世話になっている地元の大学病院に落ち着いた。会社の体制が変わった後に私は復帰した。復帰はしたが万全ではなっかた。発病前の私の仕事は全くしなくてよくなっていた。待っていたのは技術職ではあったが書類作成がメインの事務職である。この頃から私生活では衝動買いや、些細なことでも癇癪を起す行動が多くなった。自分が何をしているかわからない状態である。人間関係も上手くいかず自殺企図も衝動的に起こした。再々の入院である。この時、「統合失調感情障害」と診断され今日に至る。

会社からは「会社の経営に付いてこれない」と判断され退職となった。

 

2度目の失業のころ

2度目の失業は病気療養することとした。収入は今回も雇用保険と私の親の仕送りがメインだった。相変わらず私生活では衝動買いや、些細なことでも癇癪を起す行動」を繰り返した」。自分が何をしているかわからない状態である。人間関係も上手くいかず自殺企図も衝動的に起こした。また入院である。

しかし、2014年12月にケーブルテレビ局の社長より連絡が入り「チャンスをあげるから戻ってこい」と言われた。「悩みなど何でも相談できる人が一人でも会社にいるなら大丈夫。お前は病気ではない。」と言われ家族と相談し再度お世話になることとした。この時の感情は社長に対し感謝の気持ちでいっぱいだった。

 

再びケーブルテレビに戻ったころ

私が戻った時、みんなが私の病気のことを理解し温かく迎えてくれた。社長とも月1回面談が出来た。この体制なら病状も回復すると思った。そう思ったのもつかの間だった。またも体制が変わり社長が会長に退いた。面談も打ち切りとなった。

会社からは技術だけでなく営業もするように

との命が下り営業が不得手な私はパニックになった。この頃からまた衝動的な行動と浪費また自殺企図と繰り返しまたまた入退院を繰り返した。会長からは「ケーブルテレビに戻した俺の責任、ケーブルテレビから離れたほうが良いかもしれない。」ということで「2018年2月から1年間傷病手当金を出すのでその間に今後のことを考えろう」と言われ2019年1月31日付けで退職となった。

 

傷病手当金受給中のころ

この一年間で色々と考えることとした。先ずは断酒と規則正しい薬の服用を心掛けた。そしてどうしたら病気が快方に向かうかを考えた。で、あの父親との会話が出てきた。「お前は小さい時から一度言ったらほかの人の意見を聞かない。視野が狭い。引きこもり気味。」これは心に響いた。私自身、幼少のころからの記憶を思い返すことは無かった。ただ病気を治す事を考えてばかりいた。その時に、ふと「生まれ持った性格?」と考え始めたのである。それから本やインターネットで調べた。調べていく中で自分の半生と合致する症例が一つだけあったそれは「アスペルガー症候群」で「発達障害」の一種である。私は今まで「病気にさせられた」という気持ちがずっとあり、これが「生まれつきなら」と考え始めると「誰のせいでもない」と分かり心が楽になった。これからは上手く付き合っていき自分の適性に合った職を見つけようと前向きに考えるようになった。今後は、自分の好きなモノづくり「電気通信工事士」を目指すことにしました。

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リターン

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