「森光さん、読んでますよ」ライター　小坂章子

私は、ライターをしている。
コーヒーライターと名のることもある。
だけど雑誌「手の間」で壮大な産地視察ルポを記した
森光さんに「んー？ あの記事、どうだったぁ？」と
カウンター越しに感想を聞かれたとき、
まさか８割方読んでいません、それどころか
必死に読みすすめるのですが内容が難しくて
よくわかりませんとは言えず、
「いやあ、すごいですね。森光さんの文章は」という
曖昧な答えしかできなかった。

が、森光さんは、そんな私の微妙な空気を
１ミリもとらえることもなく、ニコニコと笑って
ウンウン、そーかそーかという感じで頷いているのだ。

その時、あらためて感じた。

ものすごい自己肯定力の持ち主だな。
自分のやりたいように生きている人は、
まわりからみると、エッ！とかたまるようなことをする。
でも自分が自分の気持ちを信じているから
行動を起こすのにためらわないし、
自分の無茶ぶりにもほぼ気づかずに
ただ単純に嬉しいから、いつも幸せな顔をしている。
目にするもの、耳にするもの、そのほか何だろうと、
すべてを珈琲に結びつけて考えてきたという森光さんは、
ご自身が言われていた「珈琲のしもべ」であった。
それを決めたのは神様じゃない。
森光さん自身がそのように生きると決めたのだ。

『珈琲美美』に行くと、必ず森光さんの姿を探した。
探さなくても、いつも店にいたけれど
森光さんの存在を感じながら『美美』で味わう珈琲は、
何にも変えがたい安心感があって
私は毎日、里帰りしているようなものだったと思う。
晩年は、テーブル席の最後尾で居眠りしていたり
焙煎のあと１階の長椅子に疲れきって横になっていたり

大丈夫かなと気になる光景もふえていった。
だけどカウンターに立つ森光さんは、
分厚い手の中にグッとネルドリッパーを握り、
一杯の珈琲づくりに一点集中、脇目もふらなかった。
自らが光となって、道を照らしてくれた。

そんな森光さんが生涯にただ一冊、記したのが
「モカに始まり」である。
たった１５００冊しか印刷されなかった、幻の本。
森光さんも生前「ネットオークションでも売り切れらしいよ」と
喜んでいた。ちなみに食べログで１位になったことも
案外嬉しかったみたいで、ホクホク顔で教えてくれた。
『手の間』の田中智子さんは、若い頃から
森光さんと親交があった編集者。
葬儀のあと、「モカに始まり」復活をのぞむ声が広がるなか、
自身の体調や資金調達のこともあり
迷いもあったようだが、いろんな人のおかげで
スタートをきる覚悟を決めることができたのは、
珈琲の神様と、天に昇ったしもべの計らいかもしれない。
ただいま、『新・モカに始まり』の追加取材中。
10月は岐阜、東京と、田中さんと一緒に飛び回って
原稿を仕上げて皆さんのもとにお届けします。

今さらだけど、手もとに一冊きりの
『モカに始まり』をなめるように熟読する自分がいる。
少しは頭に入ってくるようになりましたと
告白したら、森光さんはきっと
「えーっっ！ 今まで読んでなかったのぉ？」と
大笑いしながら、許してくださることでしょう。