<乳がんと分かってから治療までの経緯>

 

罹患する前まで私は重篤な病気や怪我は勿論のこと、手術や入院とも全く無縁の生活を送っていました。また、毎年受けていた健康診断でも特筆すべき所見は見当たらなかったので、自分は健康体そのものだと信じて疑う余地もなかったのです。

 

しかし、そんな考えを覆したのは、今から3年前の2015年5月のことでした。

私は毎日の習慣として朝起きてまず体温と体重を計測し、栄養のバランスを考えた食事を取るように心がけ、体を動かし、自己管理はきちんと出来ていると自負していました。

 

それに加えて、毎年欠かさず健康診断と婦人科検診と乳がん検診も受けていました。

前年(2014年)の乳がん検診の結果は要経過観察だったのに、翌年は要精密検査。

「普通に生活できているし、どこも痛くも痒くもないし、去年まで大丈夫だったのに…」

 

今までに見たことがないその結果がいったい何を意味するのか、どれぐらい深刻なのか、その先にどんな未来が待っているのか知る由もなく、高まる鼓動と激しく動揺する気持ちを抑えながら、精密検査の予約を入れました。

 

そして迎えた精密検査の日。検査当日になっても「あの結果は私のものではなく、誰か違う人の結果と間違えて記載されてしまった。何かの間違いだ。」と事実に抗おうとする自分と

「早く検査で白黒つけて、このモヤモヤした気持ちを払拭したい」という気持ちの狭間で激しく揺れ動き、心が震えていました。

 

程なくして自分の名前が呼ばれ、緊張を和らげるため深い呼吸を一つして診察室のドアを開けました。乳がんと疑いのある左胸にぶすりと太い針を刺して細胞を採取する針生検は思いのほか痛くて、涙が出そうになるぐらいでした。

 

数週間後。検査結果を告げる医師の表情から「ああ、やっぱりクロだったんだ」と直感で乳がんであることを察知し、その時にこれから始まる病気との闘いと、長くかかるであろう治療期間に真正面から向き合う覚悟を決めたのです。

 


 

 

<治療内容について>

 

針生検の結果から、自分のがんの種類(サブタイプ)やがん細胞の増殖スピード、悪性度が判明し、自分の体の中に確実にがん細胞が存在することを自覚したのです。『敵の正体』が判明した後、医師から治療法の説明があり、まず外科的手術で腫瘍部分を切除する温存手術を受けることになりました。

 

手術前の準備段階として骨シンチやCTで,骨や全身のどの部分にがん細胞が転移しているのかどうかを調べたり、腫瘍の大きさや広がり方を確認し、どれぐらいの範囲を切除するのか検討されました。

 

手術自体は90分と比較的短時間で終わり、術中に実施されたセンチネルリンパ節生検(がん細胞がリンパ管に浸潤しているか確認する検査)でも、がんはまだリンパに転移していないことが判明したので、リンパ郭清はしませんでした。

 

術中は全身麻酔で意識が無かったので、痛みや恐怖などを全く感じず、目が覚めたら病室のベッドに寝かされていました。手術よりもむしろ辛かったのは、バイタルチェックや尿道カテーテルなど複数の管が機械に繋がれていて、ずっと仰向けの姿勢でいることで、腰が砕け散るのではないかと思うぐらい酷い腰痛に襲われたことです。ベッドの上で私はなすすべもなく、長い夜が明けるのをただひたすらに待つことしかできなかったのです。

 

翌日になり、体に繋がれていた管からも解放され、歩いてトイレにも行けるようになり、

ようやく食事が提供されました。思っていたほどの痛みがないと安心したのも束の間、術側の胸筋がピーンと突っ張ったり、患部がズキズキと痛み出しました。そうなると、ベッドに横たわるのも起き上がるのも辛くて、まともに寝ることもままならない状態に陥りました。

 

さらに術側である左手を頑張って動かそうとしても力が入らず、右手と同じ高さまで上げることができない、少し歩いただけでもふらついてしまうなど、たった1週間程度の入院で、すっかり変わってしまった自分の体の変化に驚愕するとともに、とてつもない不安と絶望感を感じました。そして、これから先のことを思うと明るい未来など描けるはずもなく、ネガティブな思考がだんだんと私の心に重くのしかかってきたのです。

 

 

<退院後の体調について>

 

入院中は家族が付きっ切りで世話をしてくれたものの、遠く離れた場所に暮らしている老親をいつまでも自分の都合で引き留めておくことは出来ず、退院したその日から自分のことは全て自分でやる生活に戻ったのです。

 

普段、何気なくこなせていた家事も、術側の腕や胸の痛み、痺れなどによって思うように動きません。それがもどかしくて、悔しくて、情けなくて、落ち込みました。また、「何でこんなことになってしまったのだろう」、「自分の何がいけなかったから乳がんになってしまったのだろう」と自分を責め立てるようになってしまいました。今思えば、その時期の私の精神状態は、ぐるぐると旋回しながらコントロール不能のまま真っ逆さまに落ちていく飛行機のように、危うい状態に陥っていたのかもしれません。

 

<ピラティスをリカバリーの運動として取り入れた経験と感想>

漆黒の闇の中でうずくまり、方向性を見失っていた私に一筋の希望の光を与えてくださったのが、罹患前から通っているピラティス・スタジオの辻先生です。

 

術後で悶々としていた頃、つかず離れずの距離で私の体調を気遣うメールをくださり、時間がかかっても復帰を待っていてくれることを伝えてくださいました。自分の体力や今後の人生に対しても、すっかり自信を喪失しかけていたので、心にそっと寄り添ってくれる存在が私を少しずつ前向きにさせてくれて、快方へと導いてくれたのです。

 

外科的治療後1か月が経過した2015年8月中旬から、温存した左胸に放射線を照射する治療が始まりました。夏の暑さが最高潮に達する中、土日以外は朝一番で病院に行き、終わるとすぐさま職場に向かって残業までこなし、帰宅後はベッドに辿り着く前に寝落ちするというハードな日々を気合いで乗り越え、なんとか25回(50Gy)完了まで駆け抜けました。

 

放射線治療の副作用として、火傷のように皮膚が熱を帯びて赤くなったり、患部が硬くなったり、乾燥したりなどの様々な症状に悩まされました。それらの症状が落ち着いた頃、ようやく主治医から運動の許可が下りたのが2015年10月でした。

 

いきなり罹患前のようなグループレッスンに付いていく自信がなかった私は、まず乳がんサバイバーでもあるヨガの先生が主催する乳がんサバイバー向けのヨガに参加することにしました。当時、私の周りには乳がんを罹患した知り合いも無く、インターネットでしか情報を得る手段を持ち合わせていませんでした。そんな私にとって、実際に同病者の方と顔を合わせて情報交換をしたり、悩みを打ち明けたりすることで横の繋がり(仲間)を作ることができたのはその後の人生においても大きな第一歩だったと言っても過言ではありません。

程なくして体力も回復し、術側の可動域も広がってきたのをきっかけに、3か月振りにプライベートのピラティスから再開することを決めました。ピラティスは元々戦争で負傷した兵士のために開発されたリハビリ用のトレーニングだそうです。

 

マシーンだけ見ると、何だか拷問の器具みたいにみえなくもないですが、それを活用することで失われた機能の回復のサポートをし、体に大きな負荷をかけることなく少しずつ可動域を広げたり、左右差を小さくしたり、生活のQOL向上にも繋がっていきます。

 

それもその筈、ピラティスは解剖学に基づいているため、動作一つ一つがどの筋肉や関節を動かし、連動していくのかを理論的に証明し、実践していけるのです。私もそのおかげで今では左右差もほとんどなく、健常者と同じプログラムをこなすことが出来るようになりました。

 

日本では医療とピラティスの関係性や相乗効果などについて、検証中の段階であると思われますが、年々増え続ける乳がん患者の機能回復に、ピラティスは効果があるというエビデンスが確立されることに大きな期待と希望を寄せています。そして近い将来、もっとピラティスを身近なものとして普段の生活の中に取り入れてくださる方々が増えることを願ってやみません。    

 

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