
支援総額
目標金額 1,500,000円
- 支援者
- 148人
- 募集終了日
- 2019年12月16日

五浦美術文化研究所|雨漏り進む有形文化財・長屋門に一刻も早い修繕を
#地域文化
- 現在
- 3,120,000円
- 寄付者
- 101人
- 残り
- 32日

多摩湖町さくら並木再生プロジェクト
#まちづくり
- 現在
- 569,000円
- 支援者
- 48人
- 残り
- 30日

消滅寸前・住民3人の秘境|心と身体を整える「雲隠れの里」に再生へ
#地域文化
- 現在
- 7,835,000円
- 支援者
- 234人
- 残り
- 18日

生活に困窮しているひとり親家庭の子どもたちに毎日お弁当を届けたい!
#まちづくり
- 総計
- 10人

被災地・七尾市田鶴浜に 再び賑わい・語り合いの場を
#まちづくり
- 現在
- 972,000円
- 支援者
- 52人
- 残り
- 9日

お国帰りプロジェクト|田沼家ゆかりの名刀を皆で守り、後世へ
#地域文化
- 現在
- 845,000円
- 支援者
- 14人
- 残り
- 70日

『d design travel』を続けたいvol.36 徳島号
#地域文化
- 現在
- 742,000円
- 支援者
- 69人
- 残り
- 28日
プロジェクト本文
終了報告を読む
はじめまして。東京東村山の文化複合施設「百才(ももとせ)」のプロジェクトメンバー、「ハチコク社」の編集者 仲幸蔵とデザイナー 福田忍と申します。
「ハチコク社」は、私たちが生まれ育った東村山や多摩エリアを中心に活動する、編集デザイン会社です。『まちの価値を大切に伝える』ことを礎としています。
東村山では近年、西武線の高架化工事が進み、私たちが子どもの頃から馴染みのあった風景が刻々と変化しています。
私たちは日常の何気ない風景や人との触れ合いにこそ、まちの魅力は詰まっていると感じていて、それを発見する楽しさを次の世代に引き継ぎたくて「むらのわ」というフリーペーパーを制作しています。
それぞれフリーランスだったときは、東村山の自宅で仕事をしていましたが、相手は都内のクライアントさんばかりで、地域のことにはまったく関心がありませんでした。
当時はコンプレックスの象徴のようで、名刺交換をするたびに「あぁ、志村けんさんのまちですね」と言われ、それしか特徴がないまちのように感じて少しはずかしかったです。
ですが、この仕事を始め、地元の冊子でいろんな人やお店を取材したり、イベントの運営に関わるようになると、その見方は大きく変わりました。
いわゆる観光地ではない東村山ですが、当たり前だと思っていたまちのひとつひとつにストーリーや人の思いがあることに気がつき、これまでより何倍もまちが輝いて見えるようになりました。
2017年に、編集の仕事をするきっかけとなった小学時代の恩師から依頼され、地元の小学校で「東村山のすてき発見」という特別授業をやりました。
この授業は、子どもたちが地元の気になる場所やお店に取材にいき、それをレポートにして発表するというものでした。自分が暮らすまちの身近なものを取材し、「面白そうだなと感じたことを、自分の目で見て聞いて、自分の言葉で相手に伝える」ことの楽しさを経験してほしいと企画しました。
長年編集の仕事をしていると、何をどんな風に取り上げると「キャッチー」な情報になるのか、机上だけで想定してもある程度は作れてしまうこともあります。ですが、地域に関わるようになってからは、人や物事をただのコマのように捉えて「上から目線」で選ぶような編集に違和感を感じ、常に自問するようになっていました。
取材に出かけた子どもたちは、「売れ残ったお団子はどうするの?」なんてそのまんまの素直な気持ちでお店の人に質問します。
本職としている私たちには思いつかない視点がたくさん散りばめられていて、制作の原点に触れたようでした。編集の切り口とセンスは、歳や経験は関係ないと逆に学ばされました。
これを機に、この子たちや、まちの人たちと一緒に本を作りたい。いつでもどんな人でもふらっと立ち寄れる、居心地の良いひらかれた場所、編集部を作りたいと思うようになりました。
それまでは地元でなにか企画しようとすると、公民館の会議室や駅前のコメダ珈琲しか集まれる場所がありませんでした。何気ない雑談の中から新しいプロジェクトの種が生まれることも多く、おもしろいものが生まれる場のもつ雰囲気は、とても重要です。
以来、イメージに合う場所を探すようになりました。
そんな時に出逢ったのが、東村山駅から車通りの多い府中街道を歩いて6分ほど、お不動様の隣にひっそりと佇む川島邸でした。
平屋の母屋と2階建ての離れ、そしてその2棟をつなぐお庭で構成される川島邸の周辺は、樹々に囲まれた一角が広がっており、新しい住宅が並ぶ中にそこだけ時が止まったかのような穏やかな雰囲気に包まれています。
家主の川島さんのお母さまが亡くなられて数年間空き家になっており、建て替えの相談を同じまちにある工務店「大黒屋」さんにしたところ、「壊すのではなく、なんとか今ある姿のままで残して活かせないか」ということで、借り手を探されていたそうです。その思いは、「Atelierはな緒」平野さん、和紙造形作家のにしむらあきこさんへとつながっていきました。
にしむらあきこさんから、「ステキな古民家を見つけたんだけど、私のアトリエとしては広すぎるからシェアしませんか?」と声をかけてもらい、私たちもプロジェクトに関わることになりました。
長年地元に暮らし、取材であちこち回っていましたが、高いブロック塀に囲まれた川島邸の存在は知りませんでした。塀の中に広がるお庭と古民家…昔ながらの風景に一目惚れしてしまいました。
地元の新しい紙メディアを作る際に、まちの風景を次の世代に引き継いでいきたい、そのためにひらかれた事務所を作りたい、と物件探しを始めたタイミングだったこともあり、運命的なものを感じ、突き動かされるように借りることを即決しました。
川島邸を通じて初めて出会った大黒屋の袖野さんや家主の川島さんの思いと、私たちが持っていた思いが重なったような気がして、この家がご縁を引き寄せてくれたのだと感じました。
百才(ももとせ)とは100年、100歳という意味。
母屋は築66年、離れは築33年。ふたつの建物の年齢を合わせると、間もなく100歳になるこの場所が、ものづくり・まちづくりに関わるたくさんの才(能)が集まり、「縁をひらく」場所としてまちの人の拠りどころとなるよう、「百才」という名を考えました。
今年5月から数ヶ月の改修工事とDIYワークショップを経て、母屋はコミュニティラウンジとカフェスタンド、にしむらあきこさんのアトリエ、ハチコク社の編集部として、そして、離れは営業許可付きのシェアキッチンとして生まれ変わりました。
5月のプレオープン、7月のグランドオープンには市長をはじめ市内外から延べ200名近い方にお集まりいただき、6月のDIYワークショップではみんなで汗を流しました。
市の職員さんや友人、クリエイターさんたち、みんな普段着で遊びに来てくださり、百才でこんな事がしたいと、思い思いにお話をしてくれてとても嬉しかったです。
母屋のコミュニティスペース&アトリエ、離れのシェアキッチンともに、主要なリノベーションを終えてゆっくりなペースで運営がスタートしていますが、「百才」のコンセプトでもある「縁ひらく庭」はまだ手付かずの状態。
最近まで重機がお庭の隅に置いてあり、訪れた人から「まだ工事中?」といわれるような有様です。
雨が降ると地面は凸凹でぬかるみ、プールのように水が溜まります。大型車が頻繁に行き来する府中街道沿いには垣根がなく、子どもたちを安心して遊ばせることもできません。
そんな状態ではありますが、川島さんのお母さまが植えた植物が今でも残っており、季節ごとに花を咲かせ、柿の木の枝間からはシジュウカラのさえずりが響き合います。
私たちはこの川島さんが残してくれた大切なお庭をみんなで利用できるパブリックな広場としてひらきたいと考えています。誰にとっても「自分の場所であり、みんなの場所」であるような、様々な境界線がなくなるような場所にしたいです。
それは例えば、近所のお年寄りがお花の手入れをしに来たり、ウッドデッキでママたちがお弁当を広げたり、保育園の子どもたちがお散歩の途中で縁側でひと休みしてくれたり、高校生が友だちとの待ち合わせにお庭のFree Wi-Fiを使ってくれたり…「お婆ちゃん家のお庭以上、公園未満」みたいな多様性のある居場所を作りたい。
いろんな人たちが楽しそうに集まる絵はくっきりと浮かんでいるのですが、じゃあ具体的にどんなお庭にしたらそれが実現するのか。百才プロジェクトの「核」となる庭づくりを、このクラウドファンディングをきっかけにして、ぜひみなさんと一緒に進めていきたいと考えています。
家主の川島さんは、散歩途中によく「百才」に立ち寄ってくださり、縁側に腰掛けていろんな思い出話を聞かせてくださいます。土間にある井戸で染物を作っていたこと、学校帰りにテキ屋の粘土細工で遊んだこと、隣のお不動様の縁日が楽しみだったことなど、ひとつひとつがとても愛おしいものばかりです。
東村山のフリーペーパーを作り始めて7年が経ちますが、同じまちを取材してまわっていると、当たり前だと思っていた場所やお店や人が、ちょっとしたきっかけで二度と会えなくなってしまうという経験も少なくありません。
「百才」のお庭が、100年先もずっと、ご近所さんや子どもたち、家族や友人が当たり前に集い笑いあえる場所として愛され、引き継がれる場所となるよう、みなさんと一緒に育てていけたらうれしいです。
「百才」のメンバーが出会い、プロジェクトが始まって1年。これまでも既に数えきれないほどのご支援やサポートをいただいてやっとやっと歩みを始めましたが、お庭の完成をもって本当の意味でひと区切りと言えます。
「百才」が多くの皆さんの拠りどころとして受け入れられ、まちの風景のひとつとしていつまでも引き継がれるよう、ご支援をどうぞよろしくお願いいたします!!
「百才」で出来ることの重要なキーワードのひとつが「ひらく」です。営業許可付きのシェアキッチン、レッスンやイベントを開催できるパブリックラウンジなど、ご自分の特技や関心事を、まちに「ひらく」きっかけとしてご利用いただきたいと考えています。
例えば、お料理が得意で、いつかお店をやってみたいと思っているママさんが月1回限定のカフェをオープンしたり、古民家のラウンジで手しごとのワークショップを開催したり…やってみたいことのハードルがぐっと下がって、気軽にトライできるような場所になったらいいなと考えています。
今回はそんな「自分びらき」のお試しができるリターンをご用意しました。
あなたのシェアでプロジェクトをさらに応援しよう!
プロフィール
府中街道沿いのお不動さまの隣にひっそり佇む2棟の日本家屋。母屋は築66年、離れは築33数年。ふたつの建物の年齢を合わせると、間もなく100歳になります。 百才(ももとせ)とは100年、100歳という意味。数年間空き家だったこの場所が、シェアキッチン・コミュニティスペース・アトリエ・カフェスタンドなど、ものづくり、まちづくりに関わるたくさんの才(能)が集まり、「縁をひらく」場所としてまちの人の拠りどころとなるよう、令和元年に再び息を吹き返しました。
あなたのシェアでプロジェクトをさらに応援しよう!
リターン
5,000円

スペシャルハンドドリップコーヒーor生クラフトビールチケットPDF(2杯分)
・母屋にあるカフェスタンド「Off-Do COFFEE(オフドウ・コーヒー)」のスペシャルハンドドリップコーヒー(220ml)、または地元のブルワリー「Distant Shores Brewing」の生クラフトビール(420ml)のチケットをPDFでお送りします。
お友だちとコーヒー1杯ずつシェアするも良し、おひとり様でコーヒーとビール両方楽しむも良し!です。
※有効期限は、送付から半年となります。お酒は20歳未満の方にはご提供できません。
- 申込数
- 62
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2020年1月
10,000円

東村山発!ご当地麺セット
今回、クラウドファンディングの趣旨にご賛同くださった「彩雅」さんと「野口製麺所」さんのご好意でリターンに加わりました!
東村山の地元食として人気の武蔵野うどんと黒焼きそばをご自宅でお楽しみください!
・黒焼きそば1箱(麺3袋、彩雅特製ソース、作り方レシピ)
・東村山地粉うどん2パック(生うどん4人前、作り方レシピ)
※クール便で発送いたします。
- 申込数
- 39
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2020年1月
5,000円

スペシャルハンドドリップコーヒーor生クラフトビールチケットPDF(2杯分)
・母屋にあるカフェスタンド「Off-Do COFFEE(オフドウ・コーヒー)」のスペシャルハンドドリップコーヒー(220ml)、または地元のブルワリー「Distant Shores Brewing」の生クラフトビール(420ml)のチケットをPDFでお送りします。
お友だちとコーヒー1杯ずつシェアするも良し、おひとり様でコーヒーとビール両方楽しむも良し!です。
※有効期限は、送付から半年となります。お酒は20歳未満の方にはご提供できません。
- 申込数
- 62
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2020年1月
10,000円

東村山発!ご当地麺セット
今回、クラウドファンディングの趣旨にご賛同くださった「彩雅」さんと「野口製麺所」さんのご好意でリターンに加わりました!
東村山の地元食として人気の武蔵野うどんと黒焼きそばをご自宅でお楽しみください!
・黒焼きそば1箱(麺3袋、彩雅特製ソース、作り方レシピ)
・東村山地粉うどん2パック(生うどん4人前、作り方レシピ)
※クール便で発送いたします。
- 申込数
- 39
- 在庫数
- 制限なし
- 発送完了予定月
- 2020年1月
プロフィール
府中街道沿いのお不動さまの隣にひっそり佇む2棟の日本家屋。母屋は築66年、離れは築33数年。ふたつの建物の年齢を合わせると、間もなく100歳になります。 百才(ももとせ)とは100年、100歳という意味。数年間空き家だったこの場所が、シェアキッチン・コミュニティスペース・アトリエ・カフェスタンドなど、ものづくり、まちづくりに関わるたくさんの才(能)が集まり、「縁をひらく」場所としてまちの人の拠りどころとなるよう、令和元年に再び息を吹き返しました。











