おはようございます。

募集の期間も残り一週間となりました。

まだ半分まで行っていませんが、何とか皆様にご支援いただけるよう広報を続けていきたいと思います。ご協力をよろしくお願いいたします。

 

さて、事務局の方から、もっと二月会について知りたいと言われる方がいらっしゃたということで、少し難しい内容になるかもしれませんが、改めてどのようなものだったのかを明記しておこうと思います。

参考とする文献は平瀬直樹氏の論文で「大内氏の妙見信仰と興隆寺二月会」というのがインターネット上でも公開されていますので、こちらを使わせていただきます。

http://ymonjo.ysn21.jp/user_data/upload/File/kiyou/017/kiyou17-02.pdf#search='%E5%A4%A7%E5%86%85%E6%B0%8F%E3%81%AE%E5%A6%99%E8%A6%8B%E4%BF%A1%E4%BB%B0%E3%81%A8%E8%88%88%E9%9A%86%E5%AF%BA%E4%BA%8C%E6%9C%88%E4%BC%9A'

 

少し難しいと思いますので、かみ砕いて説明しますと、

二月会は現在でも東大寺で行われている修二会、お水取りというものとおなじで、念頭に行う祖霊祭、農耕儀礼という意味合いがあり、修正会に加え、実際に農耕の始まる旧暦の二月、今でいうと三月ですね、そのころに豊作予祝を確実にするために行われていたものです。

 

内容は、二月一日に大内氏の若子、嫡子が精進をし、七日から当主が参詣し、クライマックスの十三日、十四日に神前で大内氏の御家人が大きな的を射るという歩射(ぶしゃ)や、八人のこどもが雅楽の舞、舞楽を舞う童舞(どうぶ、わらわまいとも)が行われていました。

この二月会は、室町期一三〇〇年代初頭の記録が残っており、いつから始まったかはまだ正確にはわかっていませんが、それ以前か、このころから始まったものと思われます。

大内氏が滅び、毛利氏の統治になったあともこの二月会は行われ、江戸時代に毛利氏が萩に移封されてからも毎年参詣されていたそうです。その代り、江戸時代になると童舞や雅楽ではなく、能や狂言が行われるようになり、江戸時代を通じて演じられた能、狂言の番組(プログラム)は現在も記録が残っています。

しかし、江戸時代末期、幕末の動乱の中、二月会は行われなくなり、能狂言の記録も天保年間を最後に途絶えてしまいます。

もともと檀家を持たない興隆寺は、明治維新後、幕府や藩が無くなると一気に衰退してしまい、広大な敷地と多くの建物などは次第に切り売りをされ、本堂は現在山口市の大殿にある龍福寺の本堂として現在に残っています。そのため、今興隆寺には妙見社と大内義隆が寄進した梵鐘(国指定重要文化財)扁額、その他僅かなもののみになってしまっています。

 

少しいろいろと端折って書いていますが、詳しく書くととんでもない文量になってしまいますので。。。

私は、この興隆寺さんとご縁をいただき、何とかもう一度ここで何かできないかと考え、山寺コンサートを始めさせていただきました。大内氏が滅亡し、毛利氏が萩に移り、山口や、大内という地は荒れ果てていたそうです。しかし、ここでずっとずっと生き、育ち、子を産み、また次の世代につないできてくださった先人たちの思いが今の山口の文化の根底にあると思います。そこに生まれ育った私だからできること、多くの人が心の奥底にもっている地元に対する思い、愛情を少しでも膨らませ、次の世代の子どもや若い人たちに次いでいけるよう頑張っていきたいと思います。

長くくどくなってしまいましたが、どうぞよろしくお願いいたします。

 

二月会再興実行委員会

米本太郎

 

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