おはようございます。松竹大谷図書館の武藤です。

 

今回は5万円のご支援を下さった方へのお礼としてご招待する上映会の歌舞伎記録映画作品のうち、『紅葉狩』についてご紹介いたします。

 

映画『紅葉狩』左:五代目尾上菊五郎(平維茂)、右:九代目市川團十郎(戸隠山鬼女)

 

明治32[1899]年に撮影された映画『紅葉狩』は、日本人が撮影した映画としては現存する最古のものとして知られています。元来はサイレントで4分ほどの短いものですが、松竹大谷図書館で管理している「大谷家版」は、昭和25[1950]年に、九代目團十郎の肖像画が文化人切手のシリーズとして発行されたのを記念して編集されたもので、鳴物と、冒頭に九代目團十郎の養嗣子五代目市川三升の口上などが付けられた約12分の映像となっており、上映される事が珍しい大変貴重な映画です。

 

歌舞伎舞踊『紅葉狩』は、現在もよく上演される人気曲ですが、初演は明治20[1887]年10月の東京・新富座です。新歌舞伎の創作に熱心だった九代目團十郎の要望で河竹黙阿弥が筆をとり、常磐津、義太夫、長唄の当時一流の邦楽家が三方掛合の形で作曲し、主役である更科山の鬼女を演じる九代目團十郎が自ら振りを付けるという渾身の力作でした。

 

明治32[1899]年11月歌舞伎座の『紅葉狩』小番付

 

映画『紅葉狩』九代目市川團十郎(更科姫)

 

映画の『紅葉狩』は初演から12年たった明治32[1899]年11月、同じく九代目團十郎による歌舞伎座での再演の際に記録されたものです。当時の技術では、薄暗い劇場内で撮影することができなかったので、千秋楽の翌日、歌舞伎座裏の屋外に仮設舞台を作り撮影されました。あいにく吹いた風に、踊りの名手九代目團十郎が二枚扇を取り落とす場面も見られます。

 

相手役の平惟茂は五代目尾上菊五郎です。また初演では四代目中村芝翫が老人の姿で勤めた山神を、九代目團十郎は当時14才の二代目尾上丑之助に童子の姿で踊らせました。丑之助は五代目菊五郎の長男、のちの名優六代目菊五郎です。その踊りの素質を見込んだ九代目團十郎が、明治30[1897]年に神奈川県の茅ヶ崎に建てた別荘「孤松庵」で丑之助(六代目菊五郎)を預かり、舞踊だけでなく、朗読や読み書きまで厳しく仕込んでいたのは有名な話です。

 

 

九代目團十郎別荘「孤松庵」大広間と泉水(『舞臺之團十郎』より)

 

あまりの厳しさにやんちゃで鳴らしていた丑之助も音を上げたようですが、一方で釣りの好きな九代目團十郎のお供をするなど、茅ヶ崎での暮らしの楽しみもあったようです。その修業の甲斐あってこそ、のちの名優となる下地がしっかり育ったのでしょう。この映画では九代目團十郎、五代目菊五郎、そして14才にして大抜擢された六代目菊五郎という伝説的な三人の名優の動く姿を見ることができます。

 

さて茅ヶ崎といえば、川上音二郎と貞奴もまた、明治35[1902]年に、茅ヶ崎駅近くに自宅を設けて住んだ、茅ヶ崎の住人でした。この川上邸は、伊藤博文によって「萬松園」と命名されます。

 

茅ヶ崎での團十郎と音二郎の交流については、五代目三升の『九世團十郎を語る』に「茅ヶ崎に父(九代目團十郎)が別荘を作ると、川上も駅近くに家を立てて父への訪問を続けた―」とあります。また同書には、川上夫妻が茅ヶ崎に住み始めて約一年後、明治36[1903]年9月13日に、團十郎が亡くなった時の音二郎の献身的な行動について、次のように記されています。「―当時新派俳優川上音二郎氏は、茅ヶ崎に居住していた関係から、逸早く父(團十郎)の訃を聞くとともに馳せつけて哀悼の意を表し、十五日父の遺骸が茅ヶ崎を去る日まで、東京からの弔問者のために、駅から孤松庵までの道の要所へ街燈を点じ、弔問者のための便宜を図ったと共に劇界の偉人に対する敬意として、直ちに全国へ指令を出して新派劇を一日休演させたなどの挙に出たことは、川上といふ人物の一面をよく物語っていると思ふ」

 

【音貞アルバム】には、音二郎と貞奴が、茅ヶ崎の自宅前で撮影した写真が残っています。

 

【音貞アルバム】に貼られた写真。右側に「神奈川県茅ヶ崎ノ自宅」と書かれている。
前列右から3人目に貞奴、その隣に音二郎の姿が見える。


この明治32[1899]年に撮影された歌舞伎記録映画『紅葉狩』を観ながら、九代目團十郎と音二郎の交流に思いを馳せてみませんか?

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