みなさん、プロジェクトに関心を持って下さって、そしてご支援くださってどうもありがとうございます。

 

このプロジェクトでは、これまで「おりづるプロジェクト」を通して被爆者に関わってきた人たちの声を「新着情報」として紹介していきます。被爆者の声や生き様がどのように若者の人生に影響を与えてきたのかを知っていただけたら、全国に被爆者の声を届けたいという私たちの思いがより伝わりやすくなるのではないかと思っています。

 

今回記事をお願いしたのは上野祥法さんです。私が19歳で初めて被爆者と地球一周をした時、その船のチーム全体を率いる「クルーズディレクター」という大役を20代半ばで務めていたすごい人です!私個人も上野さんに人生を変えてもらったと思っています。

 

ぜひ最後まで読んでください。

 

(畠山澄子)

 

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2008年9月17日、私は当時勤めていたNGOピースボートの地球一周クルーズに乗船するため横浜港にいた。

 

クルーズは一つの大きなプロジェクトを抱えていた。広島・長崎への原爆投下により被爆した100名を超える「ヒバクシャ」を乗せて地球を巡り、各寄港地(航海の途中で立ち寄る港)で被爆体験を伝えるというものだ。プロジェクトは「ヒバクシャ地球一周~証言の航海~」と名付けられ、呼びかけに応じた103名の被爆者の方々と4ヶ月の航海を共にした。その中には、先だってノルウェー・オスロのノーベル平和賞授賞式でスピーチをしたサーロー節子さんの姿もあった。

 

12月10日(日)オスロのノーベル平和賞授賞式でスピーチをするサーロ―節子さん

 

当該クルーズにおける私の役割はクルーズディレクターと呼ばれるもので、クルーズ全体のプロジェクトや船内企画のオーガナイズを担当していた。

 

私はそこで「ヒバクシャ」と呼ばれる人たちと初めて生活を共にした。彼ら被爆者たちは、乗船客をはじめ寄港地で待ち受ける地元の人たちに向けて被爆証言を行う。同じ日本語を話す人から、言語も立場も違う人たちまで、伝える相手のバックグラウンドは様々だ。

 

彼らの中には、これまでの人生の中で証言活動を続けてきた方もいれば、一度も記憶の扉を開いたことはないという方までがいた。

 

証言をするということは、自らが受けた原爆被害の記憶、等しく辛辣で思い出したくないという部類に入るだろうそれを呼び戻すということだ。そういったことをある意味で強いることになる被爆証言のプログラムは、ときに私自身疑問を持つことも正直に言えばあった。

 

しかし彼らは、思い出すだけでも辛いその証言を人前に立ち話すということと向き合い、とても真摯にそして丁寧に言葉を紡いでくれた。

 

慣れてくれば立て板に水かといえばそうではなかった。心を抉られる痛みを抱えながら、亡くなった家族や友人の顔を思い浮かべながら、涙とそして抑えきれない心の動揺と共に話していたように思う。

 

船旅というのは、陸にいる時間よりも洋上で過ごす時間の方が長く、その中では三度の食事から夜の晩酌まで多くの乗船者たちと文字どおり寝食を共にする。

 

旅行、旅から徐々に生活という感覚に切り替わっていくのは船旅の大きな魅力の一つだ。だからこそ、それぞれの「上着」が脱げて濃密な時間と親密な関係性を築くことができる。

 

彼らと、被爆証言のプログラムも含む日々の旅を共にするうち「ヒバクシャ」という大文字の記号はいつしか溶けて、ひとりひとりの顔が見えるようになった。8月6日、9日の話だけではなく、8月5日のこと、8日のこと。そしてそこから60余年の間に起こった様々なこと。音楽や恋や家族や病気のはなし。どこにでもいるような身近なお爺ちゃんやお婆ちゃんたちだった。そんな彼らが何気ない会話の中でポツリと漏らす心体両面の葛藤や、被爆したことで引き受けざるをえなかった悲しみ、憤り、そして何よりもタフネスが彼らに通底していた。

 

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4ヶ月の航海を終えてから少しあと、雨降りで底冷えが厳しい早春の東京・赤坂の路上に私はいた。航海を共にしたヒバクシャ数名と同僚たちとともに、アメリカ大使館に核廃絶に関する申し入れをするためだった。

 

集合時間を過ぎて少し経ったころ、杖をつきながら歩いてくる男性の姿を見つけた。帰国後に体調を崩し、今しがたまで病院にいたというヒバクシャのひとりだった。彼、たった1人がその場に居ることで何かが大きく変わるわけではない。それでも、良好と言えない体調の身体を引きずって彼はきた。彼の姿が今の私を形作っていると言ってもいい。

 

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数年後の3月11日14時46分。東日本大震災発生。そして、あれから7年が過ぎようとしている今日も、未だ収束の目処すら見えない東京電力福島第一原発の事故が起こった。

 

私はピースボートを退職し新しい職に就いたばかりだったが、職場の理解もあってピースボートがいち早く派遣したボランティア隊の一員として東北に向かうことを決めた。

 

2011年3月以降、あの場所で見た風景、匂い、寒さ、ある種の絶望に似た気持ちと、そして人々が立ち上がる姿を私は生涯忘れることはないだろう。東北はもとより日本中がパニックだった。津波被害の甚大さ、それに加え未曾有の原発事故。見たことも聞いたこともないような数値の単位、飛び交う憶測や噂、そしてデマ。

 

写真:上野祥法

 

そういった中で延べ2年弱ほどの時間を東北で過ごした私は、直接の被害を受けているとは言えないけれどしかし、現実には見てもいないはずの津波の夢を見て汗まみれで飛び起きたり、突然涙が溢れて止まらなくなったりすることが頻発した。軽度のPTSDの一つだろうと今は思っている。

 

東北と東京とを往復する生活の中、東京では金曜官邸前抗議と呼ばれる、政府の原発政策に異議を申し立てる抗議やデモが東京・永田町の首相官邸前で毎週行われており、それを主催する首都圏反原発連合の初期メンバーに名を連ねていた私は、東京に戻ってきている間に時間を見つけては、抗議の場での音響やときに司会進行なども行うようになっていた。

 

写真:上野祥法

 

マイクを持ち、首相官邸や沿道の人たちに向けてスピーチをするとき、いつも頭の中には傷ついた東北の友人たちの姿があった。同時に、世界各地で被爆証言をする被爆者たちの証言やその顔も頭の中に混在していた。

 

そういった活動をするうち、一向に原発政策を変えることのないこの国の政府や、遅々として進まない被災各地の復興への取り組みに苛立ちと憤りを感じ、ときに逆行するようなこの国のあり方に諦めを覚えそうになるときもあったが、そんなときには必ずと言っていいほど、上記した杖をつきながら申し入れに現れた被爆者の姿が私を支えてくれた。

 

彼らは70年以上という気の遠くなるような長い時間、そんな思いを繰り返しながら一歩一歩、一言一言、被爆体験を伝え続けてきた。世界中の、次の世代の人たちに同じ思いをして欲しくないという強く優しい想いで。

 

そのタフな想いと地道でしかし具体的な活動こそが、今回のノーベル平和賞受賞に寄与していることは間違いないだろう。

 

半世紀以上に渡り、生活の中で闘い、政治と闘い、それでも続けてきた優しくタフなひとりひとりが掴んだ、核廃絶へ至る道の大きな一歩だと思う。

 

あのときともに地球一周の旅をした彼らの中で、今回の授賞を知ることなく鬼籍に入られた方も少なくない。

 

残された時間は間違いなく少ない。未来は変えられる、ということを教えてくれた彼らは70年以上続けてやっとここまできた。しかしまだまだ道半ば。今と未来を生きる私たちは、先輩たちの、その悲しく重いバトンも等しく受け取らないといけないんだと思う。

 

ノーベル平和賞受賞で核廃絶の波がきた今こそ、バトンを受け取り次に繋げる必要がある。そして今、時代と被爆者たちはバトンの受け取り手を探している。その大きな未来を作る一歩を1人でも多くの人たちと共に踏み出したいと願う。

 

There is no way to Peace, Peace is the way

平和に至る道というものはない、平和とはその道こそを言うのだ。

 


文:上野祥法(Book Cafe & Bar カゼノイチ店主・Photographer)


 

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