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【ちいの会ができるまで】

 平成23年11月26日、待望の第二子となる女の子を出産。お腹の中で成長を止めてしまったわが子を、予定日よりも2週間早く、帝王切開で出産しました。

 2,000gはあると聞いていたのに実際には1,616gしかありませんでした。分娩台の上で少しだけ生まれたばかりのわが子を見せてもらいましたが、私の中で不安が広がりました。「赤ちゃんってこんなに小さかったっけ…」。そう感じたのです。それでも顔をくしゃくしゃにして小さな声で泣いてくれたわが子を見て、「生きているんだから大きくすればいい」と思いました。

 

出産の翌日、主人から衝撃的な事実が告げられました。障害が多数あると医師から聞いたこと、インターネットで調べたら短命かも知れないということです。「今一番頑張っているのはNICUにいる娘だから、子どもを明るく迎え入れて、応援してあげる必要がある」と言ってくれたものの、「障害が沢山ある」という言葉を耳にして、わが子に会うのが恐くなりました。けれども保育器の中で丸まっている赤ちゃんに会ったとき、可愛いくて温かく、とても愛おしさを感じました。「障害があっても私はこの子を愛せる」。そう確信したのです。

 ところが、医師から告げられた言葉は信じがたいものでした。「障害の数々に併せて心臓に穴が開いていることが原因で、一週間しか生きられないかも知れません。その一週間を超えることができたとしても、一年も生きられないかも知れません」。私たちはどうにもならない奈落の底へ投げ落とされたことを知ったのです。

 「なぜ、生まれた翌日に子どもが生きられないと聞かなくてはならないのか…」。そのことだけが頭の中をぐるぐると巡り、医師の説明などよく理解できませんでした。それでも、千羽綾(ちはや)と名付けたわが子は、一週間、1カ月と、いのちの炎を燃やし続けました。そして、もうすぐ2カ月になろうとするところで退院することができたのです。

 

 「お兄ちゃんに千羽綾を合わせることができる」。そのことが嬉しくて家に連れて帰りました。それなのに、待っていたのは理想とは異なる生活でした。

 出産前は、小さい我が家の和室に布団を敷いて、家族4人が川の字になって寝るつもりでいました。でも、千羽綾にはケアが必要なので、和室に主人とお兄ちゃん(当時2歳)が寝て、ベビーベッドを置いたリビングで千羽綾と私(母親)が寝ることになり、家族はバラバラになりました。

 加えて「ちいちゃんに近づいてはいけない」と、お兄ちゃんを強く叱るようになりました。なぜなら、千羽綾に近づきたいお兄ちゃんが、千羽綾に酸素を送る器具や、サチュレーションモニターをいじってしまうかもしれないことが心配になったからです。また、保育園児のお兄ちゃんは絶えず鼻水を出していたので、千羽綾に風邪や病気がうつってしまうかもしれないことも心配でした。

 

 私は私で日々のケアに追われるようになりました。例えば授乳です。30分掛けて搾乳した母乳を、経鼻チューブにぽたぽたと流すのですが、千羽綾の身体に負担がかからないよう、そのスピードを3秒間に一滴ずつに抑える必要がありました。この授乳を3時間おきに行い、流し終わったら注入道具を洗い、消毒する作業が必要でした。その合間、合間に呼吸が楽になるよう吸入をしたり、サチュレーションの数値を確認したりすることが必要でした。そして、泣いたら抱っこしてあげることも大切でした。

 このような日々が続くようになり、数カ月続けただけで疲れ果ててしまいました。途切れ途切れの睡眠は、眠気を余計に増幅させます。睡眠不足と、「子どもが死んでしまうかも知れない」というストレス、そして身体の疲れから、部屋で娘と2人きりになると、理由の分からない涙があふれ出てくるようになりました。

 

 いつしか心がゆがみ、つらいことばかりを考えるようになってしまいました。「何のためにこの子はこんなにつらい身体で生まれてきたのか…ごめんね、ごめんね、ちゃんとした身体に生んであげられなかった…」と。

 

 ある日、何のために千羽綾を家に連れて帰ってきたのか考えました。「家族で一緒に暮らすためだったはず」。

この考えに行き着いた時、千羽綾をケアしている部屋にお兄ちゃんを入れてあげました。「たとえお兄ちゃんの風邪がうつって、ちいちゃんが死んでしまっても、家族として一緒に過ごしたい」と考えたのです。お兄ちゃんはちいちゃんの横に寝転がって顔を触ったり、手を触ったり、チューしたりしていました。その姿を見ていて、「普通に暮らそう。一緒に公園に行って、一緒に旅行もしよう」と思いました。

 

 近所の公園に行くことは、すぐにできました。けれども旅行となると、簡単ではありません。「現地で何かあったらどうするのか…」と、考えてしまうのです。実際にいつ、そうなってもおかしくない状態でした。

 

 主人が言いました。「せっかくお腹の外に出てきたのに、外の世界を見せないのは病院にいるのと同じ。家で何も見せずにいても死んでしまうかも知れないのは同じ。だったら旅行に行こう」と。

 

 周りの人にはやけになっているように見えたと思います。でも、あおぞら診療所の前田先生は、私たちの気持ちをくみ取って応援してくださいました。それでもなかなか千羽綾の体調が落ち着かず、予定していた旅行に行くことがかなわず、私たちは悲観していました。そんなある日、大磯にある「海のみえる森」という施設への旅行を提案してくださったのです。ボランティアの看護師さんが同行して、前田先生のバックアップもあるとのこと。こんなに安心できることはありません。「もちろん行きます!」とお答えし、現地を訪ねることになったのです。後に、この施設での体験が「ちいの会」を始めるきっかけになります。

 

 広いリビングで、ボランティアの看護師の方たちにお世話をしてもらい、気持ち良さそうに寝ている娘と、その横で遊ぶお兄ちゃんを見ながら、「来てよかった」と思いました。また、看護師ボランティアさんのほかにも、たくさんのボランティアさんが、私たち家族が楽しく過ごせるようにと温かい気持ちで寄り添っていただけたことが嬉しかったです。

 

 旅行に行けるということは、私たちの世界を変え、明るく前向きな気持ちへと誘ってくれました。旅行前から「子どもに何を着せようか、晴れてくれるだろうか」と考えたり、お兄ちゃんの喜ぶ姿を想像したりして、とても楽しい気持ちになりました。落ち着かなかった千羽綾の体調も不思議と安定して、元気に見えました。

 旅行中は治らない病気にかかり、娘との別れを間近に感じながら暮すつらい日々と、寝不足や疲れからゆがんだ気持ちが癒され、身体の疲れも溶け落ちていくのを感じました。「娘を産んでよかった」。そう思えるようにもなりました。

 また、「娘を旅行に連れて行くのは最後かも知れない」と思いながら出発したのに、帰る時には、「今度はどこに行こうか、ちいちゃんはまだまだ生きてくれるんじゃないか」とまで考えるようになりました。そして、この旅行での思い出は、私たち家族の宝物になったのです。

 

 残念ながら私たち家族4人に次の旅行はありませんでした。しかし、私たちの経験から、「同じような状況にあるご家族が、当たり前のように家族で旅行ができるようにしたい」、「そして疲労しがちなご家族に、少しでもほっと息をつける時間をつくって差し上げたい。そんなお手伝いをしたい」と感じ「ちいの会」の活動を始めました。

 

 「ちいの会」では安心して旅行や温泉を楽しむことができるよう、ボランティアでご協力いただける看護師さんを探したり、「ちいの会」に参加したからこそ体験できる特別なイベントを企画したりしています。「ちいの会」に参加してくださった方々の笑顔を拝見し、「私の考えは間違えていなかったな」と実感することができました。

 

 今後は旅行以外でも、先々に楽しい予定があることが大切と考え、さまざまなご要望にお応えして宿泊以外のイベントも考えていきたいと思っております。

 そして、「ちいの会」が行う活動のほかにも、ご要望があればほかの団体や、家族の会などが企画されることで、ご協力できることがありましたらお手伝いしていきたいと思います。

 それは私にとって心の支えでもあります。このような活動のきっかけとなった、大磯への旅行でサポートしてくださったボランティアのみなさま、そして、我が家に生まれてきてくれた千羽綾に感謝します。

 

「ちいの会」 代表 野村 知代

 

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