7つの冊子に記録された被爆体験を一冊の本にし、未来の世代に繋ぎたい

7つの冊子に記録された被爆体験を一冊の本にし、未来の世代に繋ぎたい

支援総額

1,519,000

目標金額 1,500,000円

支援者
114人
募集終了日
2021年12月24日

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2021年12月18日 07:07

「原爆、忘れまじ」から 「一ぱいの水」

S・Nさん

(当時21歳)
 私は昭和19年(1944年)8月1日より、長崎三菱兵器製作所大橋工場へ、女子挺身隊員として勤務していました。
 1945年8月9日朝、夏の青空はあくまでも高く澄み渡り、太陽はまた、今日の暑さを思わせるほどギラギラと照りだし、裏山の蝉の騒々しい鳴き声、三週間の深夜勤務を終え、私は同僚のMさんに仕事の申し送りをしました。彼女は実は深夜勤務のはずでしたが、昼勤の私に班長を通じて交代を依頼したのでした。私はこれを気持ちよく引き受けました。そのことが私の生命を助けてくれました。原爆投下後、工場は全減、彼女の首は裏山に飛び、身体は六尺旋盤の下敷きという哀れな最後でした。それは、私の姿でもあったことと思います。

 自宅で仮眠中にピカッと赤色か、青色かとわからぬほどの強烈な光を受け、ハッとして首だけをもたげた私の身体の上を、ゴオーツと物凄い風が過ぎていきました。慌ててモンペをはき、階下へ降りようとしましたが、降りるより落ちていったと記憶しています。モンペの中から血が流れ出し、両方の大腿に数十個のガラスが突き刺さり、抜いてみると鋭い角度のガラスの破片をミシン針のようだなと感じながら、抜くかたわら赤チンを縫って手当をしました。
 父は中国、兄はビルマ、弟は予科練と、男手のない私の家は21歳の私が責任者でした。
 外に出て町の様子を見ようとしましたが、ただただシーンとしています。町全体が死んでしまったのでしょうか。人間いや、生きとし生けるものの、息吹き一つ聞こえない静けさ、生まれて初めて死後の世界を見た思いでした。
 大橋工場へと救護に向かいます。県庁の青銅の屋根から十数本の白い湯気がゆらゆらと立っています。とても美しく感じられたことを覚えています。通り過ぎポォッーと音がする。後ろを振り返ると青銅の屋根は火の海でした。私が見たのは県庁の燃え出す寸前の状態だったということです。長崎駅まで来ますと赤、黒ともうもうたる土ぼこりが立ち込めていて、中には一歩も入れない状態で、恐ろしくなって帰宅をいたしました。
 午後になると、自宅の前の路をぞろぞろと列をつくって人々が歩いてきます。一言も話さず血だらけ、火傷、見るも無惨な姿です。知り合いの子から、救援に行ってくれと言われ、もう一度工場へ…と出かけました。午後4時頃だったと覚えています。寄合町を下りますと、下から赤いダルマさんが歩いてくる。すれ違ったときに見ると、赤いと思ったのは、下半身の皮膚が火傷でむけてしまって丸裸の状態でした。ズボンもほとんどなくベルトだけ、頭、顔も血だらけです。 私はその人に声をかけました。「どこへ行かれますか」「東小島に帰っていくのです」。しっかりとした声でした。この傷では5分か10分持つかなあと考える私、普通では歩くのも無理な傷でここまで歩いてくる…。
 3日ほどして、母と小さい弟の身体の調子がおかしくなってきたので、島原へ連れていくことになりました。熱が出て、身体がダルイダルイと言い出した。その上に、母は髪の毛が抜けると言います。島原は買出しに行ったおり、時々お世話になった宿屋です。弟を背にして、母の手を引っ張り、路の尾付近まで来ました。その時どこから来たのか覚えがありませんが、一人の男の人が「アイゴー」「アイゴー」と泣きながら、私達の側を通っていくのです。私を見て「お嬢さん、お水をいっばいください」と頼んでくるのです。
 それはたどたどしい日本語でした。顔は血がこびりつき、傷口にはウジがウジョウジョうごめいているのでした。身体も上半身火傷をしていて、お尻の所へ板をあて、両手に形の違った下駄をかませ、両手の火傷でドロドロになっている皮膚が下駄の鼻緒にくっついていました。そして、いざりながら歩いています。気息はエンエンとしていました。
 私は思わず水筒の口をあけました。その時、母が私の手を押さえ「今この人に水をやったら死に水になる。もう少し先の長与という所に救護所があるから、そこでせめてもの傷の手当をしてもらえるかも知れないよ…」というのです。
 その頃はすでに、原爆にあった人達に水を飲ませると、すぐに死んでしまうということを聞いていましたし、長与の救護所も知っていました。開けようとした水筒の口を閉じ、歩きだしました。訳を話してあげることもできなかった。
 その時、その男の人は空を見上げ、大粒の涙を流し、大きな声で、「アイゴー、アイゴー」と泣くのです。その声、その顔、今もって私の頭から離れないのです。後で聞くと朝鮮の人は、たとえ長与に行けたとしても、傷の手当もなにもしてもらえなかったと聞きました。そして彼らは強制連行とやらで、日本に苦役として連れてこられたと聞きました。見知らぬ国へ強制的に連行され、言葉も通じず、原爆にあい、そして水の一ぱいも貰えず…彼は空に向かって何を訴え、何を考え、何を泣いたのか…哀れで申し訳なく、今も考えると涙が止まらないのです。合掌
 戦後結婚して子の親となり、原爆放射能の恐怖にさらされ、子供の将来の健康を案じつつ、30年間、私は常に一ぱいの水の重さを背中にしょって生きてまいりました。私の子育ても終わりました。
 専門家でもない一介の主婦である私がはっきりと言えることは、戦争のおぞましさ、原爆・核の使用は、人間のやることでないと断言できるのです。
 子育ての終わった日から、被爆者手帳の交付を受けました。一日でも長く生き抜き、核の恐ろしさを人々に訴え、戦争への道をストップさせ、平和の尊さ、それがどんなにももろいものか話し続け、語り続けることが、せめてもの「一ぱいの水」へのお詫びであると信じ念願をしている 私です。 

リターン

3,000


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3,000|応援コース

・感謝の気持ちを込めてお手紙を送らせていただきます。
・リターン費用がかからない分、いただいたご支援金はクラウドファンディング手数料やリターン費用を除き、「原爆、忘れまじ」の制作費用に充てることができます。

支援者
17人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年8月

5,000


5,000|「原爆、忘れまじ」セットコース

5,000|「原爆、忘れまじ」セットコース

・復刻したこの7冊に、あらたに作成する解説冊子を加えた8冊を箱入り書籍として制作します。
・5,000円を一口として、一口につき8冊箱入り書籍1セットをお送りいたします。二口のご支援であれば、箱入り書籍2セットとなります。
・ご支援いただいた全ての方に、解説冊子編集委員会から編集中定期報告(毎月予定)を送ります。亡くなった被爆者の方が残された資料や掲載されなかった証言などを、編集中の議論を紹介しながら報告します。
・編集委員会に寄せられた支援者のお便りもご了解を得て解説冊子に加えさせていただきたいと考えています。

支援者
42人
在庫数
955
発送完了予定月
2022年8月

10,000


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10,000|応援コース

・感謝の気持ちを込めてお手紙を送らせていただきます。
・リターン費用がかからない分、いただいたご支援金はクラウドファンディング手数料やリターン費用を除き、「原爆、忘れまじ」の制作費用に充てることができます。

支援者
41人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年8月

30,000


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30,000|プロジェクト参加コース

・あらたに作成する解説冊子にてご支援者様のお名前を掲載させていただきます。
・「原爆、忘れまじ」を通じて、被爆体験について語り継がれていくにあたり、本リターンをご支援いただいた方のお名前も記録され残される形となります。

※お名前の掲載に関しては希望制とさせていただきます。
※ご不要の方については、お手数ですが質問事項にて「不要」とご記載ください。

支援者
10人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年8月

100,000


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100,000|プロジェクト参加コース

・あらたに作成する解説冊子にてご支援者様のお名前を掲載させていただきます。
・「原爆、忘れまじ」を通じて、被爆体験について語り継がれていくにあたり、本リターンをご支援いただいた方のお名前も記録され残される形となります。

※お名前の掲載に関しては希望制とさせていただきます。
※ご不要の方については、お手数ですが質問事項にて「不要」とご記載ください。

支援者
5人
在庫数
制限なし
発送完了予定月
2022年8月

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