みなさま、こんにちは。パレスチナ・アマルの北村です。

 

これまでこのプロジェクトを応援下さいましたみなさまへ、ご報告がございます。

 

本日、目標金額の87万円に到達しました!

これも、みなさまのご支援・ご協力のおかげです。本当にありがとうございました。日本のみなさまが、パレスチナに、パレスチナの地場産業に、そしてラスト・カフィーヤに関心を寄せて頂けることを実感し、とても感激しております。

 

ご支援下さったみなさま、プロジェクト立ち上げに際し助言下さいました関係者のみなさま、SNSでシェア・拡散にご協力下さったみなさま、そしていつも見守り支えて下さいました協力者さま。今までアマルと出会い関わって下さった大勢のみなさまの思いと共感により成立したプロジェクトです。必ずパレスチナの地場産業を守れるように励んでまいります。心より感謝しております。本当に本当にありがとうございました。

 

昨日、現地の工場に電話しました。成立するまではと、まだこのプロジェクトのことは告げていないのですが、きっと喜んでくれるものと思います。

 

そして、まだ途中になっておりますガザ日記のつづきを以下ご紹介いたします。

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あの絶望の夜をなんとかやり過ごした次の日の朝、私は一家をどうなぐさめたらよいのか、その言葉を見つけることができず、部屋でぐずぐずしていました。

すでに長男さんは、外に出て家の仕事を手伝っていました。
「おはよう、キヨミ。昨日はごめんね。ぼくたちはとても落ち込んでいたものだから、英語でキミに話すことができなくて」と、いつもと変わらぬ声でした。

「いいのよ、そんなこと。大変だったね」
私はとても意外でした。長男さんはきっと今日も悲嘆にくれているだろうと思っていたのですが、そんなことはなく、新しい一日の新しい朝を迎えたようでした。

私はその姿に驚きました。長男さんだけでなく、一家みんながそうでした。いつもの日常に戻り、各々の役割を淡々とこなしていました。まるで、何事もなかったかのように。

 

どうして? 私は目の前の光景についていけませんでした。
ここでは、すべてがそうでした。まるで時間がコマ送りのようにパタパタと過ぎていき、時間に留まり、なにかを深く考え込んだり、感傷にひたることなど赦されないようでした。そうでなければ、やりきれない日常だからでしょうか。それほど、ここでは不条理な出来事が多く、「死」がすぐ隣りにありました。

ある日のこと、外出から帰った私を悪いニュースが出迎えました。

長女さんが屋上で洗濯物をとりこんでいたところ、砲弾が飛んできたということでした。長女さんは倒れ、病院に連れて行かれたということでした。

 


いてもたってもいられず、私も病院に行く! と言ったのですが、彼女はすでに病院から戻り、近くの友人の家に行っているということでした。

「無事だから、心配しないで。別にあたったわけではないし、ショックで倒れただけなんだから」という言葉に半信半疑になりながら、私は彼女を待ちました。無事だから、といっても、もし飛んできたのが劣化ウラン弾だったらどうするのだろう? なにか体によからぬ影響が出るのではないでしょうか。

しかしそんな心配もよそに、友人とのおしゃべりを楽しんだ彼女は、すっきりとした顔で帰ってきました。
「心配したのよ!」という私に、「ああ。私もビックリしたのよ。私の頭のすぐ上を飛んで、ブロックにあたったの。あと数センチ下だったら、今、私はここにいないでしょうね」

とにかく良かった。だけど。
私はめまぐるしく変わる状況に、ついていけずにいました。

 



夜になるとミサイルが放物線を描き、入植地からは定期的に砲弾が撃ち込まれ、イスラエルの偵察機が頭上を低空飛行していました。海の向こうから軍用ヘリが飛んできて、街を破壊していきました。

ドンっという音が腹に響くたび、「なによ!」とむしょうに腹が立ちました。

あたりまえのように停電が起こり、水は不足し、わけもわからずチェックポイントで何時間も待たされ、大学を出ても職はなく、貧乏で食べるものも買えず、新学期の準備もできない。そんな生活、そんな日常、そんな人生、それがガザでした。

夏が終わるころ、私はガザを去りました。
つぎにいつ会えるかわからない、本当に会えるかもわからない。

私は涙をかくすことができませんでした。それを見て、長女さんは冴えざえとした笑顔を見せました。

「キヨミ。なぜ、泣いてるの?」
「だって、悲しいから」
「私たちは泣かないの。いつかパレスチナが解放される、その日まで」



私は日本に帰ってから、文字通り抜け殻のようになりました。街も人も、のっぺりとして影がなく、まるでジオラマのようでした。口にするものも味がなく、聞こえてくるものも嘘っぱちでした。

飛行機を見るとイスラエルの偵察機かと訝り、ヘリコプターの音が不気味に耳に響きました。

ガザの友人たちにメールを打とうとすると、真っ赤な塊がぐっと胸にこみあげてきて、指が震えました。何度も何度もあの絶望の夜に立ち戻り、何度も何度も打ちのめされました。家から普通に出歩けるようになるのに、数週間かかりました。友人の協力を得てガザにメールを打つのに、一年半かかりました。

PTSD(心的外傷後ストレス障害)。そんな言葉を知ったのは、それからずっと後のことです。

そうだったのかもしれません。今となっては、わかりませんが。

私は怖くてパレスチナに行くことができずにいました。その間に、ガザは完全封鎖され、入ることができなくなりました。

ガザが大規模な空爆を受け、弾かれたように呪縛が解けたのは、2008年のことでした。それから再びガザの一家とネット上でつながりを得ました。彼・彼女はすっかり変わっていましたが、私のことは忘れず懐かしんでくれました。

 

それから何回ガザは攻撃を受けたのでしょうか。

私の心はずっと彼らと共にあります。

 

いつかガザに入り、一緒にお茶を飲みながら、ガザの商材について相談できれば。

それは、夢でしょうか?

そう願うのは、おかしいでしょうか?

 

でも、きっといつかそうなることを夢見て、私はアマルの活動を続けています。

 

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クラウドファンディング期間はあと6日ほど残っております。目標金額以上にご支援頂きました分は、ラスト・カフィーヤを使った商品開発や今後展開を考えております織物工場の機織り機のメンテナンス資金などに使わせて頂きます。

 

最後まで見守って頂けますと幸いです。

 

ここまで本当にありがとうございました!

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