2011年3月11日。
あの日、私は自宅で仕事をしていた。
緊急地震速報が鳴りやまぬ携帯電話を片手に、妻がリビングから出てきた。

ほぼ同時に揺れが始まった。

 

高校生の頃宮城県沖地震を経験しているが、止まらないのではないかと不安になるくらい、長い時間揺れていた。

仙台湾の方に引っ張られている感覚があった。

 

揺れている間、保育園にあずけている次男のことが心配だったが、保育園を信頼するしかなかった。

窓から見えるダウンタウンの街並みは地震の土埃でかすんで見えた。

 

長い揺れが収まった後、次男を迎えに行くため自宅を出たのが午後3時40分。

仙台駅前にある朝市センター保育園までは6kmほど。

普段であれば、車で30分もあれば到着する距離である。
停電で信号が消え、アスファルトがめくりあがり、いたるところでブロック塀が倒壊し、旧4号線は大渋滞。
保育園のある仙台朝市についたのは、すっかり日も落ちた午後7時過ぎ。

 

普段、たくさんの人で賑っている朝市はひっそりとし、人の気配が全くなかった。
子どもたちは息をひそめて暗闇の中待っているのかと思うと、心ばかりが焦った。

 

ビル5階にある朝市センター保育園に続く階段は、窓がなく、停電のせいもあり、真っ暗闇だった。
車に積んでいた小さな懐中電灯が役立った。

 

「誰かいませんか‼無事ですか‼」

大声で叫んでもシーンと静まりかえっている。

閉まりかけの非常扉の奥にある、保育園のドアをこじあけた。

すると、暗闇の奥から「子どもたちは無事で、二番丁小学校に避難しています」とか細い声が聞こえた。

その声に安堵し、二番丁小学校に向かった。

 

空にはヘリコプター、警察や消防の赤色灯、避難を求める多くの人々。

物々しい雰囲気の中、やっと出会えた我が息子は、怖がる様子もなく、実に
あっけらかんとしていた。

「Uちゃん、帰るぞ。」

 

二番丁小学校を後にし自宅にたどり着いたのは午後10時30分をまわった頃であった。

 

多賀城の病院に勤務していた妻は、この日、のちに三男として誕生するRの母子手帳の受領のために仕事を休み、おたふく風邪で小学校を休んだ長男と一緒に貝ヶ森の自宅にいた。

もし、普通に仕事に行っていたら、身重の妻もRも助からなかったかも知れない。

 

のちにわかったのは、朝市センター保育園のスタッフは、子どもたちとともに、全員避難をしており、保育園には誰一人残っていなかったということ。
二番丁小学校に避難していると教えてくれたのはいったい誰だったのだろう。

今となっては、真相を知る由もないが、少なくとも、朝市センター保育園の子どもたちは、見えない誰かにも守られているということだろう。

 

仙台認定保育室A型に昇格したとき、隣に大きなマンションが建築され日照権の問題が起こったとき、風俗営業法の理由から移転問題が起こったときも、みんなで力を合わせて未来を切り拓いてきた。
朝市センター保育園は保育の質が高く、子どもにとっても、保護者にとってもかけがえのない場所であることは他の保護者も書いている通りだが、この保育園に関わることで、社会的な活動を余儀なくされる。

 

街頭募金活動や署名活動、仙台市長への陳情、テレビ局からインタビューを受け、ちょっとテレビに映ったりもした。

この文章を書いていることもそうだ。
この保育園に子どもが通っていなかったら、これらの活動に携わることはなかっただろう。

 

今回の保有金問題では、READYFOR?を通じ、全国の方たちから応援をもらっている。
私たち当事者と違い、見ず知らずの保育園のためにお金を払ってくれようとしている。
READYFOR?に掲載されている数あるプロジェクトの中で、朝市センター保育園のプロジェクトにたどり着いていただき、さらに興味を持って記事を読んでいただいたことに感謝したい。

 

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