ふきだしの松川です。
シューレ大学では研究や演劇をやっていて、修了を期に山本と劇団の旗揚げをしました。昨日は山本が家に来て、さんまさん見ながら、どんな思いで旗揚げしたか話しました。


私には自分なんてない、空っぽであるという虚しい思いが長いことありました。確固たる意志を持った人になろうとして、ほんの些細な意思決定においても自分を守ろう守ろうと必死でした。そうしないと自分が空っぽなことがバレてしまう、そう思っていました。
そういう思いが逆転して次は、自分なんてなくて、空っぽなんだよと開き直って存在したくなりました。これはなかなかよかったです。仮に空っぽだとして何が悪いのという態度です。あたかも自分は自分を持っています、コントロールできています、と思って生きるよりも、ドタドタとコントロール外の事に身をおいて生きてみるという事をする。積極的に恥ずかしい思いをしようと自分を破壊しようとする。やってみると恥ずかしい思いはなかなか難しい。どうしたって上手くやろうとするし、いつだって私はまぁまぁ上手いし、破壊しなくても始めから下手だし。そういう自分を人前にさらしても「あー痛いね」と思われるぐらいです。
人の中で色々と試してみて、結局のところ私はなんなんだよ、ということを考え続けていたと思います。それで私は結局他者から「あなたずばぬけていいですね」と言われたかった、ということが分かった。それが分かった時、私はオイオイ泣いた。それが一番恥ずかしくて、隠したかったことだった、と分かったからだ。泣いたというのは、そんなに踏ん張らなくても「あなたいますね」と認めてくれる人々に出会い、その想いを受け取ったということ。だから今までの自分ご苦労さんという思いと、付き合ってくれた人にありがとうという思いがあります。

しかし私は相変わらず時々は淋しいのです。引き続き「あなたいますね」と確認し合いたい。それは色々な感情においても言える。あぁその感情があるのですね、と思い合いたくて演劇をやっている。そこを抜きにして生きれない自分がいる。私はとてもげんきんなので「そうですか」言われたら「そうですか」と言う。そう言って欲しいので言う、というところから始まって、言われなくても言いたいので「そうですか」と「あなたいますね」を言う表すということを続けたいのです。演劇をするというのは「そうですか」って言い合って自分や他人を確認し認め合って生きませんか、ということ。そして時には、そのような生き方を続けるために「それは嫌だ」と「それは悲しい」を表すこと、大切な事が何か、時にゆるやかに悪意に変わる善意に注意深く生きることを始めることです。役を演じるという事は私の中の「そうですか」が増えていくという事です。そんな想いに共感して下さったらとても嬉しい、そういう思いがあります。

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