支援総額
目標金額 2,000,000円
- 支援者
- 191人
- 募集終了日
- 2015年1月24日
山谷の現状(1/3)
あと約1週間で、スポンサー募集期間も残り1か月になります。
現在の達成金額は、1,004,000円。おかげさまで、目標金額の半分に到達しました!
残り半分、引き続きご支援、よろしくお願い致します!
今回も前回に引き続き山友会ソーシャルメディア活用プロジェクトチーム、吉間慎一郎さんによる記事「山谷の現状(全3回)」です。
過去の文献や資料などを丁寧にまとめながら山谷の歴史を紐解き、山谷の現状について説明してくれています。
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山谷とは?
山谷は泪橋を中心に広がる地域で、東京都台東区と荒川区をまたいでいます。「さんや」や「やま」と呼び、日雇労働者の街(ドヤ街)として知られてきました。ドヤとは、簡易宿泊施設のことで、「宿」をひっくり返した呼び名です。かつて、山谷という地名は存在しましたが、現在では、山谷の地名は消滅し、かつて山谷という地名があった一帯を山谷地域と呼んでいます。
それでは、どのようにして現在の山谷があるのでしょうか。山谷の歴史を少しひも解いてみたいと思います。
最寄り駅の南千住駅より山谷方面へ。スカイツリーが間近に眺められるエリアでもあります。
山谷の歴史(1) ~山谷の形成~
山谷はもともとは「三家」や「三屋」と言われていたようで、江戸時代よりも前に、古民家が3件あったことが由来とも言われているそうです。江戸時代には、宿場町として栄えていましたが、中期になると、町人足役(労役の一種で、清掃や町の整備などを行う)が必要となり、そのころから日雇労働者が山谷周辺に集まっていたようです。そこに木賃宿が登場します。木賃とは、米代や薪代を払って自炊して泊まることをいい、江戸後期になると広く普及していきました。
さらに、徳川家康は、都市政策の一環として、山谷に被差別部落民の人々を集住させていました。また、犯罪者の処刑などを行う小塚原刑場が山谷の北部にあり、部落民の人々が屍の片づけなどを行っていたので、山谷近辺に多く住むようになったそうです。
武州豊島郡千住小塚原の地蔵菩薩
明治期になっても、長屋の制限や木賃宿の営業地域の制限など、政府の政策によって山谷には多くの人が集まっていきました。こうした地域の特性が広く知られるようになり、さらにそうした人々が山谷に移り住むようになりました。こうして、日雇労働者の街、山谷が形成されていったのです。
次回は山谷が現在に至るまでの経緯を追ってみたいと思います。
【参考文献】
遠藤興一「山谷の歴史―都市下層社会研究序説」『明治学院論叢575号』
ちなみに、山谷の歴史については、過去にこのREADY FOR?で、
というチャレンジを行った、写真家の新納翔さんもご自身のWebページでまとめてくださっています。
新納さんの写真集も山谷の雰囲気がよく伝わってきます。ぜひご覧ください!
リターン
3,000円
■ サンクスレターをお送りします
■「山友会ロゴ入り散華(さんげ)」をお送りします
- 支援者
- 88人
- 在庫数
- 制限なし
10,000円
3000円の引換券に加えて、
■「無縁仏となってしまうホームレスの人々のためのお墓建立プロジェクト報告書」をお送りします
■「お墓建立記念トークイベント」へご招待します
※都内開催予定
※日程/詳細は後日ご案内致します
※スピーカー(予定)
・吉水岳彦さん(光照院 副住職)
・ルボ・ジャン(山友会 代表)
※宗教を超えて、「お墓」とは何か、「お墓」にこれから望まれるものとは何か、等についてのディスカッションを予定しています。
- 支援者
- 89人
- 在庫数
- 完売
50,000円
10,000円の引換券に加えて、
■「山谷スタディツアー」へご招待します。
※「山谷地域」のスポットや弊会の活動についてご案内させて頂きます。
※日程/詳細は後日ご案内致します
- 支援者
- 10人
- 在庫数
- 9
100,000円
50,000円の引換券に加えて、
■「お墓完成記念イベント」へご招待します
※日程/詳細は後日ご案内致します
- 支援者
- 7人
- 在庫数
- 3