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今回も前回に引き続き山友会ソーシャルメディア活用プロジェクトチーム、吉間慎一郎さんによる記事「山谷の現状(全3回)」です。

過去の文献や資料などを丁寧にまとめながら山谷の歴史を紐解き、山谷の現状について説明してくれています。

 

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山谷とは?


 山谷は泪橋を中心に広がる地域で、東京都台東区と荒川区をまたいでいます。「さんや」や「やま」と呼び、日雇労働者の街(ドヤ街)として知られてきました。ドヤとは、簡易宿泊施設のことで、「宿」をひっくり返した呼び名です。かつて、山谷という地名は存在しましたが、現在では、山谷の地名は消滅し、かつて山谷という地名があった一帯を山谷地域と呼んでいます。
 それでは、どのようにして現在の山谷があるのでしょうか。山谷の歴史を少しひも解いてみたいと思います。

 

最寄り駅の南千住駅より山谷方面へ。スカイツリーが間近に眺められるエリアでもあります。

 

山谷の歴史(1) ~山谷の形成~

 

 山谷はもともとは「三家」や「三屋」と言われていたようで、江戸時代よりも前に、古民家が3件あったことが由来とも言われているそうです。江戸時代には、宿場町として栄えていましたが、中期になると、町人足役(労役の一種で、清掃や町の整備などを行う)が必要となり、そのころから日雇労働者が山谷周辺に集まっていたようです。そこに木賃宿が登場します。木賃とは、米代や薪代を払って自炊して泊まることをいい、江戸後期になると広く普及していきました。
 さらに、徳川家康は、都市政策の一環として、山谷に被差別部落民の人々を集住させていました。また、犯罪者の処刑などを行う小塚原刑場が山谷の北部にあり、部落民の人々が屍の片づけなどを行っていたので、山谷近辺に多く住むようになったそうです。

 

武州豊島郡千住小塚原の地蔵菩薩

 

 明治期になっても、長屋の制限や木賃宿の営業地域の制限など、政府の政策によって山谷には多くの人が集まっていきました。こうした地域の特性が広く知られるようになり、さらにそうした人々が山谷に移り住むようになりました。こうして、日雇労働者の街、山谷が形成されていったのです。

 

 次回は山谷が現在に至るまでの経緯を追ってみたいと思います。

 

 

【参考文献】
 遠藤興一「山谷の歴史―都市下層社会研究序説」『明治学院論叢575号』
 

ちなみに、山谷の歴史については、過去にこのREADY FOR?で、

「日雇い労働者の街、山谷の現状。写真集作成プロジェクト」

というチャレンジを行った、写真家の新納翔さんもご自身のWebページでまとめてくださっています。

二分で分かる山谷の歴史(山谷ウェブマガジン 山谷NOW)

新納さんの写真集も山谷の雰囲気がよく伝わってきます。ぜひご覧ください!

「Another Side」(新納翔)

 

 

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