前回に引き続き、「山谷の現状」についてのレポートです。

 

関東大震災、太平洋戦争、高度経済成長期と激動の時代を、日雇い労働者の街であった山谷では何が起き、どのように変化していったのかがまとめられています。

 

今回も山友会ソーシャルメディア活用プロジェクトチームの吉間慎一郎さんによる記事です。吉間さん、ありがとうございます!

 

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山谷の歴史(2)

~戦争と高度経済成長~


 こうして日雇労働者の街となった山谷は、大正12年に起きた関東大震災からも瞬く間に復興し、日雇労働者の街としての性格を強めていきました。震災後には、政府による失業対策がなされるようになり、昭和恐慌下ではそれがさらに強化されます。しかし、それは十分に機能したわけではなかったようです。

 

 太平洋戦争が始まると、労働統制が強化され、山谷の労働事情も大きく変化します。労働力が不足するようになると、山谷の労働者で特別勤労報国隊(軍需工場や鉱山で無償労働をする)が編成されました。その後の戦況はみなさんがご存じの通りです。山谷も空襲に遭い、火の海と化したのでした。

 

 戦後、行き場を失った人たちのためにテントの仮宿泊施設が山谷につくられました。そして、宿泊施設はバラック、本建築へと再建され、復興を遂げていきます。これらの施設は後に民間に払い下げられ、これが現在の山谷にある簡易旅館のおこりだと言われています(当時は東京都民生局委託施設「厚生館」と呼ばれていましたが、現在でも「民生旅館」や「厚生館」という名前の宿泊施設があるのはこの名残です)。

 そして、戦後復興のなかで働く人が増えるにつれて、簡易宿泊施設も増加していきます。しかし、まだまだ生活に苦しむ人は多く、都からの生活援助もほとんど機能していませんでした。そんななか、旅館主たちは、毎年正月の三が日に炊き出しを行うなど、多面的な福祉事業を実行していきました。

 

※現在の簡易宿泊施設

 

 そして、日本は高度経済成長期を迎えます。この頃には山谷は都内随一の寄せ場に発展していました。この頃の山谷については知っている方も多いかもしれません。

 

※「山谷労働センター30年のあゆみ」より

 

 山谷騒動が起こったのは昭和34年。山谷の日雇労働者たちが度々交番を襲撃し、警察と衝突を繰り返しました。昭和43年以降になると、騒動は突発的なものから、計画的なものへ、政治思想を掲げるものへと変わっていきました。山谷地区交番(いわゆる「マンモス交番」。今は移転し、日本堤交番に改称。)は山谷騒動の象徴的存在でしょう。

 

※山谷騒動(山谷労働センター30年のあゆみより)

 

 山谷騒動の原因には、手配師による労働搾取や社会からの偏見や差別に対する不満などがあったといわれています。しかし、その頃はちょうど東京オリンピックが開催されたときで(昭和39年10月)、オリンピックの舞台裏では、路上生活者が排除されていきました。山谷騒動はこうした日本が高度経済成長を遂げる過程で生じた矛盾や軋轢(あつれき)が山谷で爆発したものでした。

 

 それから約50年を経て今日の山谷があります。前回ご紹介したように、山谷は明治時代にはすでに日雇労働者の街でした。それが様々な出来事を経て今日に至ります。そして、その歴史の中で山谷は差別や偏見の対象だったということも忘れてはなりません。
 

 高度経済成長が終わり、日本の成長期を支えた山谷の労働者の人たちも歳をとっていきました。経済成長が終わり、高齢化社会となった今、山谷はどのような変化を遂げたのでしょうか。次回は、山谷のいまをご紹介したいと思います。

 

 


【参考文献】
・遠藤興一「山谷の歴史―都市下層社会研究序説」『明治学院論叢575号』144頁以下
・今川勲「現代棄民考 『山谷』はいかにして形成されたか」(田畑書店)
・城北旅館組合ホームページ http://www.e-conomyhotels.jp/ja/pc/history.php

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