ある日突然、頭痛から症状がはじまり、検査入院。

あれよあれよと月日が経ち、1年半後にやっと退院できたけど、失明してしまう。

 

1年半前までは目が見えていたのに、今はもう光を感じるくらいで、映像としては見えなくなってしまった。

 

これは、僕の友達で、作業療法士として患者さんの治療に当たることを仕事にしていた仲間の話。

 

支援する側

から

支援される側へ。

 

当たり前に見えていた世界から、

まったく見えない世界へ。

 

病気を通して、生活が激変してしまった彼の話を聞くと、いつも身につまされる思いがする。

それは、彼いわく

 

見えなくても、見えるものがある。

 

という。

 

これまで何気なくしていたことの中で、当たり前に見えるので気にしていなかったことが、改めて意識する上で見える(感じる)ようになってきたんだという。

 

それが、患者である自分への支援者の対応だという。

 

声の感じや雰囲気にその人の心のありようが出ているし、こちら側に主体がある人と、自分勝手な人はまったく違う感じがする

 

という。

 

確かに、支援者がどんなに優れている人であったとしても、

彼の感じている主観が全てであるのは間違いない。

 

自分が作業療法士として働いていたことをふりかえって、

 

その人のことを本当に見ようとして見ることが出来ていなかったと反省する

 

と言っていた。

 

自分に置き換えてみて、ある程度、経験も積み重ねてきて、慣れてきてしまって、ある意味機械的に、簡単に流すように見ていないか?

 

特に、相手が子どもになると、大人と子どもの非対称性があることを前提に見ようとしているか?

 

簡単に見ること

じっくり見ようとすること

 

では、

 

結果として「見えるものが」変わってくるんだと思う。

 

自分に振り返ってみると、見ているものの中でわかったふりをしているけど、本当は見えていないものの方が多いような気がしている。

 

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