福島県南相馬市で、その男性の存在を耳にしたのは、震災から2年が経とうとしていた頃。今から3年ほど前のことでした。
津波に自宅ごとに呑まれたものの、奇跡的に救助され、九死に一生を得た男性。

しかし気が付いた時、自分以外の、一緒に自宅にいたはずの家族6人全員は、もうこの世にはいませんでした。

 

 

津波で亡くなった、笑顔の子ども達。

その左側に映っているのが、今田祥子ちゃん(当時10歳 小学4年生)です。

今田芳槙(いまだ・よしまさ)さんは、祥子ちゃんのお父さん。
いつか、ご縁があればお会いしたいと思っていた、その今田さんと、ようやく先日初めてお会いする機会に恵まれました。

 

 

< 2015年10月12日 福島県南相馬市での取材より>
10月12日。
夏の間、緑色に生い茂った草が、秋の訪れと共に少しづつ茶色くなりかけている、その何もない場所。そこに一人の男性が、何をするともなく、たたずんでいる姿が目にとまりました。
しばらく様子を見ていると、声をかける人がー。上野敬幸さんです。
声をかけた相手は、今田芳槙さん(50歳)。二人は震災前、隣同士に住んでいました。二人が立っている場所には、かつて今田さんの自宅がありました。

 

 

津波で跡形もなく流され、手づくりの小さな祭壇だけが置かれた、今田さんの自宅跡で、二人肩を並べて立ち話をするのです。

こうした時間は、震災後の二人にとって、きっとかけがえのない時間だったのだろうと思います。それは二人が共に、我が子を亡くした経験を持つ同士だからです。

 

 

 

「同じ、津波で家族を亡くしたのでも、子どもを亡くした親の気持ちはねえ。なかなか分かっては貰えないよね。」
共に、津波で子ども達を亡くした上野さんと今田さん。他の誰にも打ち明けられない想いを、唯一お互い話せる存在となっていました。

今田さんは、野球が得意だった高校生と大学生になる息子2人と小学生の娘の、子ども3人を亡くしました。

子ども達は、人生経験が少ない分、関わりのある人も少ない。だから、その存在を偲んでくれる人が大人よりも少ないんだと、今田さんは話します。

 

 

ー そんな子ども達のために、出来ることは何か?

探し続けた震災後。次男が取りたかった、バイクの免許を取りました。息子の同級生達と、酒を酌み交わすこともありました。そして、長女の祥子ちゃんのために、小学校の卒業証書を貰いに行ったこともありました。
「タバコ、辞めたんですよ。震災前に、祥子に言われて。「タバコ吸ってたら、私の結婚式まで生きていられないよ。」って。」

 

でも、3人の子ども達は、もうこの世にはいないー。


「もし、子ども一人でも生きてたら、俺も「新しい家建てよう」って、頑張ってたろうなって。」
震災後は、借り上げ住宅に一人住まい。今はただ、流れに身を任せ、日々が過ぎるのをなんとなく暮らしているだけだと。あの日から、何も変わっていない。一歩も踏み出せていないと、今田さんは静かに語ります。

 

 

2011年3月11日、午後2時46分。
その時、今田さんは自宅にいました。福島第一原発から約22kmの場所です。揺れが収まった後、小学校にいた祥子ちゃんを迎えに行き、帰宅後の午後3時40分頃、津波に襲われました。
家族7人を自宅ごと呑み込んだ津波は、言葉に出来ない凄まじさだったと、想像を絶する破壊力だったと、今田さんは振り返ります。
「プロパンがあちこちで、爆ぜる音が聞こえて。自宅の2階から屋根の上に逃げたんだけど、そのまま波に持って行かれて。」
最後、波に浮かんだ屋根が真っ二つに引き裂かれた時、妻と母が流されていった光景が目に焼き付いています。そして、屋根の上に残された自分と、3人の子ども達も、ほどなくして波に呑まれました。

 

 

 

津波の翌日、今田さんは、子ども達を自分の手で捜し出しました。
長男の遺体は、妹の祥子ちゃんを抱きかかえるようにして、二人で見つかったといいます。

 

— その日、福島第一原発の1号機が爆発しました。

 

翌々日の14日には3号機と、爆発は続きます。そして、南相馬市にも避難指示が出されました。
当時、今田さんが、亡くなった子ども達の火葬のため、市役所に手続きに行くと、その場で、人数分の火葬費用の支払いを求められたといいます。そして、死亡診断書を病院に取りに行ってくれ、とも。
まだ、他の、見つかっていない家族を捜している最中でした。
家族を亡くし、悲しむ余裕すらもない状況の今田さんに向かって、かけられた心無い言葉。きっと当時の市役所は、震災の対応で混乱を極めていたことだろうと推測します。それでもねえ、と今田さんは続けます。
「全てが淡々とした事務手続きで。お金は、駆けつけてくれた身内に借りて、なんとか払いました。そんなの今さら、怒ったって、仕方ないんですけどね。」

 

今田さんにとっての、震災4年目。

いまは、6人を供養することが自分の役目だと言い聞かせ、日々を生きているといいます。「記憶」の中の家族の姿と共に、思い出を唯一の支えに、過ごす毎日。

6人の命が失われた事実は、変えることは出来ないし、かつての幸せな日々はもう二度と取り戻すことは出来ません。
だからこそ、この出来事が、せめて次の誰かの命を守る教訓となって欲しいと願わずにはいられません。
ようやく、出会うことが出来た今田さん。もしも許されるのなら、この先、ゆっくりと、少しづつ、対話を重ねていけたらと思っています。

 

 

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