
大正2年10月4日、岩崎鏡川は維新史料編纂會の常置編纂員に
明治44年、維新史料編纂會が発足したての頃、人事をめぐって「勤王派から選ぶべきだ・・・」「いや佐幕派からだ・・・」と内紛が勃発し、その意識は幕末と全くかわりがなかったということです。
同年6月に入って編纂方針をめぐって初の会合が開かれました。まず、東北7県のメンバーが反発の狼煙をあげました。史料の提供はしないというのです。彦根藩も明治42年の直弼銅像事件があったことから当然拒否。
結局、旧藩から委員をだして公平を期そうではないかということで、体制が固まったのが明治45年の初めだったのです。発足して実務にとりかかるまで半年以上もかかったのです。
東久世伯爵が亡くなったのは大正元年のことです。明治32年に岩崎鏡川とはじめて会って以来、鏡川を幕末維新史の編纂作業に是非とも加えようと各方面に働きかけ続けてきました。しかし存命中に願いはかないませんでした。
こうした東久世伯爵の遺志を引き継いだのが帝室編集室総裁の土方久元伯爵だったのです。大正2年3月3日付けで金子堅太郎子爵から土方久元伯爵に宛てた尺牘が1通あります。
内容は「維新史料編纂會の井上総裁は、現在病気療養中です。編纂員として推挙されている岩崎英重(鏡川)の件は検討中なので、結論をもう少し待っていただきたい」というものです。
また、大正2年9月23 日付けで、岩崎鏡川が編纂員に採用されるよう、井上侯爵が土方伯爵に宛てた推薦状もあります。そうこうするうち、岩崎鏡川に維新史料編纂員の辞令が発せられたのは大正2年10月4日のことでした。
事態はめまぐるしく動きます。編纂員になったばかりの岩崎鏡川が大正4年に「大日本史籍協会」を立ち上げたのです。『大日本史籍協会趣旨書』が残っています。賛助会員の筆頭にはなんと維新史料編纂會総裁の井上馨侯爵の名が。
リターン
5,000円
5000円コース
■お礼状をお送りします
■オリジナルスタンプ帳
(龍馬の肖像画や鏡川の直筆をスタンプにし、6,7点のスタンプを押印してお送りします)
- 支援者
- 3人
- 在庫数
- 制限なし
- 発送予定
- 2020年9月
10,000円
10000円コース
■お礼状をお送りします
■オリジナルTシャツ(龍馬の肖像画入り)
- 支援者
- 2人
- 在庫数
- 制限なし
- 発送予定
- 2020年9月
30,000円
30000円コース
■お礼状をお送りします
■オリジナルイラスト額装
龍馬の父が「りゅうま」と命名した根拠を表すイラストを額装にしました
- 支援者
- 1人
- 在庫数
- 制限なし
- 発送予定
- 2020年9月
50,000円
50000円コース
■お礼状をお送りします
■復刻した藩論つき「龍馬関係文書」1冊
- 支援者
- 3人
- 在庫数
- 17
- 発送予定
- 2020年9月