「ニューヨークの唇」について

　蝦名さんは、人生や生活のことをあまり語りませんでした。私も聞きませんでした。そんなことはいいと蝦名さんは言うに違いないのですが、遺稿を預かった者としては、語っておくべきことも少しはあるかもしれません。

　蝦名さんはパソコンもスマホも持っていませんでした。青森時代に使っていたワープロが壊れた話は聞きました。あるときから画面を開くと、そこにあらわれた詩が消えるようになり、また開くとまた消えて、いくつかの詩篇が失われたそうでした。消えた詩が再び書かれたかどうかは、わかりません。

　東京にいたころの原稿は、ガラケーのメモのなかか、あるいは薄いノートのなかだったと思います（本人の希望で処分されました）。2010年に再会したあと、ときおり思いついたように、蝦名さんがメールで送ってくる短歌や詩を、私はパソコンに入力していました。

　２年前の秋、蝦名さんの病気がわかったあと、それらを印刷して送りました。歌稿の整理に役立つかしらと思ったからです。「イーハトーブ喪失」（1993年）以降の歌たち。「ご自分で整理してくださいね」と私はメールしたと思います。癌の痛みとたたかっている人に。

　　二死二塁九回裏の土壇場も行けるぞっティアーズドロッパーズ ！

　冬になって、ある日、ふいにこの歌が送られてきました。それから蝦名さんは、古い歌を並べ替えたり、新しい歌を作ったり、歌稿をまとめてゆきました。歌稿は、メールでも送っていましたが、小さなガラケーの画面での編集は難しかったろうなと思います。

　それにしても、蝦名さんの推敲は容赦なくて、本当に容赦なくて、送りなおされてくる度に、歌がどんどん減っていくのでした。私は、いくつかの歌たちの命乞いをしました。命乞いがかなったものもあり、かなわなかったものもありました。

　180首にまとまったとき「それでいい」と蝦名さんは言いました。もう時間がありませんでした。

　そのようにして「ニューヨークの唇」180首は残りました。